2018/03/15

コーヒー・トラベラー

近所の豆店で、どの産地にしようかと選んで買う。
 生豆で200g、実質160gくらい。
毎朝2人で飲めば16杯、8日分。
1週間強で飲みきる計算になる。 

コーヒーの味は産地によってまるで違う。
焙煎の深さ、淹れ方によっても変わるけれど、
焙煎と淹れ方は変えないようにしている。 

新しい豆を最初に飲む日は、
前日までの味との違いに違和感を覚える。
前日までの味を期待しているので、
美味しくないとさえ感じる。 

だけど、毎日飲んでいると、
舌と鼻がその豆になじんでくる。
予想と結果の誤差が収斂していくのである。
フィードバックやキャリブレーションと呼んでもいい。 

違和感を感じたくなければ、
毎回同じ産地の豆を買うということも考えられる。
いつもと同じ味、自分のもっとも好みな味。
変化と安定、どちらを嗜好するかといえば大げさだろうか。 

我が家は、これこそが一番美味しいという産地を
まだ確立していない。
あの産地もこの産地も捨てがたく美味しいのである。
そして、まだ飲んだことのない産地もある。 

まだ知らない美味しさを求めて
今も世界中の産地を旅行中なのだ。

2011/06/23

エンジニアの思想

engineer と engine は語源が異なるという説もあるようだけど、engineerはengineを操る人という語源を元に、話を進めたいと思う。

エンジニアは、もともとエンジン技師を指す言葉だった。それが転じて、あらゆる専門性のある技術や技能の持ち主を指すようになった、という解釈。

昔の蒸気機関(steam engine)は、操作するのがとても難しかった。操作するための知識やウデのある人が操作していた。どのように操作すれば石炭を効率よく動力に変えることができるかを、理論的あるいは経験的な裏付けによって、エンジニアは知っていたのだと思う。

かなり雑に言い切ってしまえば、今も昔も、そしてどの分野のエンジニアも、ある理想的な出力状態(パフォーマンス)のために、いろんな入力(パラメータ)を選ぶという判断を下しているのだと思う。ふつう、その入力と出力の関係は、入り組んでいて単純ではない。

僕たち建築構造の分野では、理想的な出力状態というのは、破損や人災が生じない状態である。それを実現するためには、建物の骨組みをどう構成したらよいか、骨組みの材料はどのようなものがよいか、骨組み1本1本はどのくらいの大きさにしたらよいか、という、いくつもの選択肢を、時間や予算の条件も考慮しながら1つ1つ決めていくのが構造エンジニアの仕事である。

しかも、単に「破損や人災が生じない状態」といっても、どのくらいの規模の地震まで、これを適用するか、社会やクライアントがその条件を提示してくることは、まずありえない。
「うちのマンションは200galの神戸地震で時刻歴やって弾性設計してよ。」
とか言える人はすでにそういう仕事をしているはずである。
(※「」の中は事実無根の内容です)
なにか地震に関しての要求があっても、もっと漠然としていて、とにかく「壊れないように」とかその程度だと思う。そうすると、エンジニアが、自らの判断により、耐えうる地震の規模を設定しないといけない。

このような判断こそが、エンジニアリングの本質だと、僕は思う。つまり、だれがやっても結果が同じになるような構造計算の部分よりも、その計算と計算の間にある、種々の個人的な判断がエンジニアには重要なのだろう。

この種の判断は、その昔のエンジン技師にも必要だっただろうし、今のあらゆるエンジニアにも必要なことなのだろうと、僕は理解している。

この理屈の展開を成立させるため、僕の中で「エンジニア = エンジン技師」説が消えることはないし、いつまでも最有力説であることに変わりはないだろう。

2011/05/23

10進法より12進法?

なぜ10進法を昔の人たちは採用したのだろう。
指の本数が10本だからというのが僕の中では最有力。

10進法は、たとえば「3割」という表現のように、人間の感覚に
すっかり同期してしまったように思う。
約数の多さなど、12進法の方が便利な面もあるにはあるけれど。

とはいえ、10進法でないものも身の回りにはある。
角度(360度)
時間(1日=24時間、1時間=60分、1分=60秒)

また、英語などの言語は、10からというよりは
13から違うルールになる(-teenはthirteenから)

最近、日本の東西での電気の周波数の違いが話題になったけれど、
西日本がアメリカの60Hzの発電機を輸入し、東日本がドイツの
50Hzの発電機を輸入したことに起因しているそうで。
僕は、(関西-アメリカ-60)(関東-ドイツ-50)という
各3項目の性格分類に、「この分類以外にない」と妙に納得して
しまうのである。


アメリカという国は、今でもヤード・ポンド法が一般的に
使われている。(1yard=3feet, 1feet=12inch)
それゆえに、アメリカやイギリスの模型の縮尺は1/48、1/72が
標準的。

建設業界では、図面の縮尺(スケール)は、用紙サイズと
関係してくる。たとえば、A3で1/400の図面をA2にレイアウト
し直すとき、A3とA2のサイズの比率は1:√2なので、
A2では 400/√2=282.8.. より、すこし縮小して1/300で
レイアウトするとちょうどよい。
これがA3で1/300の場合だと、300/√2=212.1.. より、
A2では1/200だと少しはみ出るし、かといって1/300だと
A3と同じスケールなので用紙サイズを大きくした意味があまりない。

なんとなく、12進法ならもっとスマートにスケールを調整できる、
と思っていたけれど、いろいろ試してみたら、10進法と
あまりかわらないようだ。

2009/02/22

what he(/she) chooses, what he(/she) watches

例えば、何人かで旅行へ行き、各自100枚ずつ写真を撮るとしよう。そうやって撮った写真には、まさに十人十色な傾向が現れるだろう。1枚1枚ではその傾向が弱くても、100枚集まればその人はどういうものに注目していたか、どういうものに注目していなかったかが明らかになる。
同じことが、言葉にも言えると思う。特に、比喩の仕方にはその人の内面が現れる。親しくなった、あるいは親しくなっていくであろうその人と何度も話をする中で、よく使う比喩、言葉、仕草というものこそが、その人らしいな、と僕は思う。
それはこういうことではないだろうか。人間とは、観察し学習していく生き物だ。自分が触れる、あらゆるものを人間は観察している。植物、気候といった物理的な物・現象、他人の言動、書物などなど。その観察によって得られた情報を自我が咀嚼し、消化する(学習)。そしてそれ以後の表現や行動に影響を与える。例えば、書物の中に自分の琴線に触れ、「これは」と思うような表現を見つけ、十分に消化しきれたら、その表現が新たに自分のボキャブラリーとして定着するというようなことである。
以上をふまえた上で考えたことがある。フジテレビの番組「とんねるずのみなさんのおかげでした」の中の1コーナー、博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜について。最近は年に数回程度の頻度で行われている。タイトルの通り、「知らんわ!(モノマネの対象を)」と思うようなモノマネを何人もが次々と披露していくコーナーである。視聴者の大半が真似される対象を知らないと思われるが、当コーナーは人気を博している。それはなぜか。このコーナーにおけるモノマネに、その人の観察、消化、表現という行為が全て現れているからではないだろうか。その人が何に興味を持っていて、何を面白いと思った上で、その面白さを表現したかに尽きる。細部にこだわることは、その人の観察力の確かさを伺わせる。
最後に。森博嗣氏は言った、「作家が持っている最大の力とは、文章力でなく、人物観察力である。」と。

2008/10/30

内面から知る

建築学科で,まだ研究室に配属される前の話。
設計の授業が始まって,市内某所に○○(例えば住宅)を設計しなさい,といった課題が与えられる。大まかなコンセプトに始まって,基本設計の図面に至るまで,進捗状況を毎週先生に見せる。それがエスキスと呼ばれるもの。机をはさんで向かいに座り,図面や模型を見せながら,ここはこういう考えでこういう形にしました。と説明する。そうすると,その形だとこういう不具合が生じる,こういう矛盾がある,整合性が取れてない,と指摘されながら,持ってきたアイデアをもっと良くするにはどうしたらいいか,を議論する。それを毎週繰り返して,最終的な図面や模型を2ヶ月程で完成させる。学科の約40人が提出したもののうち10~15点は,講評会という場で,授業担当以外の先生も迎えてプレゼンをする。その場でもダメ出しのようなコメントを多く頂く。僕は,設計の課題を何回か重ねるうちに,設計を考えるのは好きだけど,自分には向いていないな,と感じて,今の建築構造の研究室の門を叩いた。
それはさておき,講評会の後には,ほぼ毎回,打ち上げの飲み会が企画される。たいていは我々学生と先生やTAもいっしょに飲む。そうすると,先生は学生のことをいろいろ聞くわけだが,「君はどんな設計やってたっけ」という質問がこの場においてはメジャーだ。「こういう形のこういうものをやりました。」「あー,あれね。あれはちょっと○○すぎたよね」とやりとりが続く。つまり,先生は学生の顔は覚えていなくても40人40通りの設計はたいてい覚えている。また,各設計者(学生)に対する印象というものも,外見や人柄ではなく設計で決まっているように思う。僕らが雑誌などで作品を見る,有名建築家も同様だ。いろんな建物の図面や写真があり,たいてい設計した建築家の名を冠しているわけだが,作品集でもない限り,その建築家の顔を見ることはない。たまたま出くわしたその建築家の写真を見て,「この人ってこんな顔だったんだ,想像してたのと全然違う。」なんて思うことが多々ある。
考えてみれば,小説やマンガ等の作家もそうだ。たいていは,ある作品を読んで好感を覚え,同じ作家の別の作品にも手を伸ばす。後になって著者の写真を見るあるいは全く見たことがないなんてことも多々ある。

一般の社会生活では,他の人の内面をまず知るという機会はあまりない。それどころか,外見だけで人を判断してしまい,先入観を抱いてしまう。それゆえ,建築学科で経験した,内面から知る,知られるということは,すごく新鮮で,なおかつ正当な感じがした。

2008/10/15

CAFE HAWELKA

中欧の旅から,はや7ヶ月。旅行時のパンフやらチケットがしまわれていたファイルを久しぶりに取り出した。ウィーンの路面電車のチケット,ドイツのお城のリーフレットなどなど。こうやって手に取ってみると,「夢だったのではないか」という感覚がぬぐわれ,本当に行ったのだなということが再認識される。このハヴェルカのコースターを見ると特に。

カフェ・ハヴェルカ。その昔,ウィーンの芸術家たちも集まったという,歴史あるカフェ。多くのガイドブックに乗っていることもさることながら,僕が行きたいと思った理由は他にある。旅行の前の年に発売されたアルバムの中で,くるりは「ハヴェルカ」という曲を書いた。さらに,アルバムのブックレットの裏表紙は,くるりの2人が,ハヴェルカの外の席に座っているものだった。このアルバムは,ウィーンで収録された。
そういえば,ウィーンの道中僕の頭の中ではこのアルバムの曲ばかりが鳴っていた。
そんなこんなで,ウィーンの自由観光の途中,僕はカフェ・ハヴェルカへ向かった。それは,ウィーンのほぼ中央に高くそびえたつシュテファン大聖堂から伸びる広い歩行者道路から,わきへ入ったところにある。僕はそのわき道の反対側からハヴェルカを目指した。一方通行とおぼしき狭い道は両脇の軒高ゆえ,あまり日が差さない。そんな通りに,ハヴェルカはひっそりとたたずんでいた。
すこし緊張しながら,僕はその扉を開けた。やや重みのある木の扉。風除室が狭い。もう一枚の戸をくぐる。思っていたよりも店内は狭い。雑誌の写真とは違って,人でごったがえしている。話し声で騒がしい。皆の吸う煙草で,上層の空気が白っぽい。空席が見あたらない。ウェイターに英語でたずねたら,「どこでもお好きなところへどうぞ」といったが,やっぱりそこのトレーを片付けて,僕が立っていたすぐそばの椅子を用意した。「どうぞ」と。用意されたのは,英米系の夫婦のテーブル。相席か。僕は席に着いた。テーブルが小さく,向かいの夫婦までの距離が近い。内心,気が気でない。きょろきょろと店内を見回した。壁一面に張り重ねられた,ポスター。濃い色の木の内装。きちっと正装したウェイターたちは,テーブルの間を縫うようにちゃきちゃきと動き回るが,僕たちのテーブルのところには,いっこうに立ち止まる気配がない。仕方なしに,忙しそうなウェイターを呼び止める。メランジェを注文する。予習済みだったのであわてなかったが,この店にはメニューがない。ウィーン特有のコーヒーの種類は覚えておいた。カフェやトルテは,ウィーンの文化である。そして,カフェでの語らいが,芸術を育んだといえる。注文後かなり間があってから,メランジェが用意された。メランジェとは小さいカップに注がれたの濃いめのエスプレッソのこと。光沢を放つ銀色のトレーに一式乗せて持ってくるのがウィーン流。そしてかならずグラスの水がトレーに乗ってくる。なるほど,コーヒーの合間に水を飲むと,よりコーヒーを味わえるようだ。向かい合わせの夫婦は,追加でワインを注文した。水が入っているのと同じようなグラスに注がれていたので,最初はよくわからなかったが,色からして赤ワインだろう。夫の方がガイドブックのようなものを読みながら妻と話し合ってる様子から,彼らも観光客なのだなと思った。
メランジェでだいぶ緊張は解けたが,それでも僕はそわそわしていた。いつ勘定をしようか,とウェイターを目で追っていた。さっさと帰ってしまうのはもったいないような,でも落ち着かないしと,迷ったままその場に身をおいていた。結局,何分間ハヴェルカに居たかは定かではない。ただ,向かいの夫婦が勘定し終わる瞬間を見計らって,そのウェイターに「ツァーレン」と言った。彼は金額を紙に書いて,テーブルに置く。日本人と分かっての事だろう。そのほうが,こっちとしてもありがたい。僕が勘定を済ませた時,相席の夫婦は,もう店を出るところだった。僕はゆっくりと上着を着て,マフラーとかばんを持って席を立った。

店を出て,少し歩いたところで,ポケットの中からコースターを出した。ワインのグラスが乗っていたそれである。コースターと言っても,ナプキンのような紙が何枚か重なったもので,いかにも使い捨てるような代物だ。もう既にグラスの液でしわができている。店を出る間際,片付ける前の,夫婦がのトレーから拝借した。


"CAFE LEOPOLD HAWELKA"そして創業者Leopold Hawelkaのサインのプリント。
このコースターには,僕の冒険にも似た僕の旅の思い出が詰まっている。

2008/04/17

ウィーンを歩く

ツアーということもあって、それまでは良くて数時間のフリータイムばかりだったが、7日の午後とこの日は自由観光だった。
朝は添乗員について郊外ののみの市へ行った。そしてグループの友人たちと地下鉄で中心市街地へ戻ったあと、夜の室内楽の時間まで僕は1人で動くことにした。まずはリンク沿いにある王宮へ行った。リンクというのは旧市街中心部を縁取る環状のトラム路線のこと。かつて城壁が取り囲んでいたが、防衛の必要がなくなったため、それらを取り払った。さらにその周辺に設計競技によって建設された公共建築が集められている。王宮は広大な庭を前に構え、居座っていた。ハプスブルグ家の栄光を物語るように。そこから、適当に行きたいところを決めて地図を見ながら、でも気まぐれ半分でほっつき歩いた。途中、休憩がてら2回カフェに入った。どちらも地元生活者が多い印象。会計は「ツァーレン ビッテ」、ありがとうは「ダンケ」。もう慣れっこである。2軒目のカフェを出て、また歩いていたら、道の先から「on the sunny side of the street」が聞こえてくる。広場の隅で路上演奏をやっている人たちだった。クラリネット、バンジョー、サックスの3人組。このあと、「take the A train」もやっていて、少し立ち止まって聞いていた。その広場ではマーケットもやっていた。屋台みたいな木の建物がずらっと並んでいて、木のおもちゃからアクセサリーまでいろいろ売っていた。さらに歩いてちょっと疲れたので、トラムを使ってリンクのおおよそ北端から南端へ移動した。高さの揃った街並みや欧州車、当然ながら車窓から見えるものも日本とは全然違う。降りた駅近くのウィーン美術館では「ナゴヤ展」なるものも開催されていた。展示会には入らなかったが、ミュージアムショップで展示に関する分厚い本を立ち読みする。名古屋城、万博、トヨタなど…なるほど。スシのサンプル、チョップスティックスも売っていた。ウィーン美術館を後にし、もう半ばやることがなくなって、前日も行ったケルントナー通りへ。スーベニアショップからH&Mまで立ち並ぶ、道幅10数mの歩行者天国となっている。ここはだいぶ観光客が多い。それでも地元の若い人たちも多くいるのだろう、僕には区別がつかないが。ずっと1人で動いていたので、日本語もしゃべらないし、目に入るのも色白で鼻筋の通った顔ばかりである。日常の面影が全くない、この感覚が心地よかった。気分はもう欧州人である。日本人・アジア人はあまり見かけなかったが、たまに見かけると10m先でも区別がついた。ここにもいた、と出くわしたのは薄暗がりのショーウィンドウに写った自分だった。僕もやっぱり鼻が低いんだな、とすこしがっかりした。

2008/03/12

旅手帖(1) 手荒い歓迎

3/2、ローテンブルク(ドイツ)にて。あるレストランのウェイターとの思い出。

とても気さくな人たちだっだ。
カタコトの日本語で,「オイシイ?」と聞いたり,僕たちの1人を指差して「サトウタクマ?」「ナカタヒデトシ?」と言ったりしてくる。
写真を撮ってくれとカメラを渡すと,全然違う方向にカメラを向け,すぐ横にいる別のウェイターを撮っている。

僕たちが会計を済ませ上着を着てもう帰ろうとしていたそのとき,彼がおもむろにショットグラスを人数分用意し、「まあ飲めや」とばかりにいかにも強そうな酒をストレートで注ぎ始める。(払ったチップが予想より多くてうれしかったのか?) ボスはこっちだ、とボスには別の酒を注ぐ。gilsonもその巻き添えを食う。 8+2(ウェイターの分)が揃ったところで皆にそれを持たせ、
「one time! one time! カンパーイ」

皆渋い顔をしている。ウェイターたちはケラケラと笑っている。ボスの酒は予想以上にキツかった。
彼らは一期一会の楽しみをよく知っている気がした。

少しハイなテンションと程よく温もった体で,僕らはホテルへ帰った。

2008/02/12

作り手本位のデザイン

建物(集合住宅)で言えば、うなぎの寝床なのも、収納が少ないのも、(RC造なのに)上の住戸の音が筒抜けなのも、作り手本位と言える。ここでの作り手とは、施主やオーナーも含む。確かに(全ての住戸を南面させた上で)貸付面積や住戸数を最大化させようと思えば、うなぎの寝床みたいな住戸割が最適である。狭い平面をなるべく居室に割り当てるには、収納や水周りはコンパクトな方がよい。また建設費を安く抑えるために、床スラブや壁は薄いほうが良い。全て作り手本位の原理だ(日本の家賃が高いという側面もあるが)。その結果使い勝手はないがしろにされてきた。建築だけの話ではない。あらゆる製品も然り。
本来、デザインとは使い手本位であるはずだ。使い手が感嘆するような配慮がされているものこそ優れたデザインだと僕は思う。

2008/01/21

スケルトン・インフィル

主に鉄筋コンクリート造や鉄骨造の集合住宅や事務所の建物に関する話。
スケルトンとは躯体のこと。インフィルとは内装・設備などをさす。
日本では内装や設備を仕上た状態で引き渡すことが一般的である。普通の契約はそうなっている。しかし,欧米ではスケルトン渡しが一般的で,入居者が自ら(あるいは依頼して)インテリアや空調・水周り等の設備を造作する。メリットは内装や設備が陳腐化しても,簡単に取り替えられる点である。
建物を使っていて,最初に壊れたり,寿命を迎えたりするのは水周りや空調の設備や配管等である。今までの日本の建築はインフィルもスケルトンと一体で作られている(≒設備の取替えを前提としていない)ので,古い水周りが使い続けられている場合が多い。私の研究室がある建物がまさにそれである。しかも今は使われていない暖房器具が鎮座し,その配管も残ったままだ。(単にお金がないだけかもしれないが)
躯体はあまり老朽化していなくても設備の陳腐化・老朽化により取り壊される建物が多くあったように思う。またそういう「建てっぱなし」的な建物が多く存在することが,古い=ぼろい・汚いというマイナスイメージを植え付け,日本人の(?)新築志向に繋がっている気がする。そしてできるだけ安く建てようとするがゆえに,また安普請で息の短い建物ばかり建てられてたように思う。それだけが原因とは言わないが。

既存不適格

日本の建築について1つ記事を書いて論じようと思っていたけれど、
1つにはまとめきれないので、キーワードという形式を取る。

既存不適格。我々建築を専門とする者にとっては必須単語のようなものだが、一般の方はご存知だろうか?
簡単に言えば、建築の法律が変わっても、すでに建っている建物は法律違反の対象にはならない。そのすでにある、基準を満たしていない建築のことである。法の不遡及ということ。
日本の建築基準法は頻繁に改正される。2007年の6月にも改正された。地震国だから仕方ない面もあるのだが。今既に建っている建物の幾許か(定量的なことは述べられないが)は既存不適格であり、現行の法律を満たしていない。法律を満たす、満たさないだけが問題ならば、姉歯物件以外にも問題の建物はいくらでもあるということ。
既存不適格の建物がそのまま使われ続けるのは問題ではない。ただ、改築・増築となった場合は基準法を満たすような工事が含まれなければ改築・増築を行えない。補強などでその建物を保持できる場合はまだいい。例えば、前面道路の規定を満たしていない場合、その建物・敷地だけではどうすることもできない。
例えば、下町的な木造の建物が軒を連ねる細い路地の街並みを残すことは簡単ではない。
日本の建築の寿命が短いひとつの要因は既存不適格の問題が絡んでいるように思う。

2008/01/11

創造するには

前回と同じブログより,この稿について。
実践となるとなかなか難しいのだが、確かにうなずける内容だ。建築設計に当てはめて考える。建築家(デザイナー)は人にもよるが、最初のコンセプトを考えるとき、また詳細を検討するときにいくつも模型を作ってスタディする。数百案(個)というのは、あながち間違いではないと思う。建築家のアトリエに無数の模型が山積しているのをよく雑誌などで見かける。
設計課題では、ことごとく考えられていない点を指摘されることが多かった。週に1度、エスキスといって、設計途中の図面や模型を先生に見せて指導を受けるのである。大して考えていないのに、自己満足なものばかり作っていた。無知の知がなくて自分では及第点ぐらいはあるつもりだった。
ある教授がこんなことを言っていた。「図面とはラブレターのようなものだ。夜中にこれだ!と思って、ハードライン(定規を使った線)で一気に描き上げても、翌朝見てがっかりすることがある。」多少なりとも設計をやっている身としては、なんとなく分かるような気がした。
研究の場合、実験にしろ解析にしろ、手探りでも良いからとりあえずやってみないとわからない。私はまだ調査的な研究しか行っていないので、あくまで印象でしかないが。

2007/11/09

人間の作る、かたち

この稿での90度に関する考察が非常に興味深い。確かに、90度という角度は最も人間的な角度であり、自然界で見ることは少ない。なぜ人間が90度にこだわるのか。2つほど思いつく理由がある。1つは、物理学、力学、数学等、人間が築いてきた理論体系が90度、つまり直交座標系に則っているからではないだろうか。要は人間がイメージしたり把握したりするのに最も易しい座標空間なのだろう。なぜ把握しやすいのかという点までは考えが至らない。ただ、地理認識は4方位に依拠しているので、緩いカーブや複雑な交差点では混乱してしまう。4方位以上は把握しきれないのだろう。もう1つは、その形(長方形)でその拡大した形を敷き詰められるということ。逆に言えばある形を分割しても同じ形であるということ。なおかつその分割線が貫通している。これは三角形も該当する。例えば紙を製造して無駄なく使うというときにこのルールは合理的である。あるいは都市を作るときにも有意である。平城京や平安京がその最たる例だ。紙で言えば、1:√2という比率の紙の長辺を半分に分割してできた2枚の紙も1:√2である。現像写真のサイズ、A4、B5といった印刷用紙の規格がほぼこれに則っているのはよく知られている。

建物も人間が作るものなので、90度のものが多い。そのほとんどといって良いだろう。これも同じく人間の理解や把握に基づいて90度である。古代、レンガのような組積造の壁に開口を穿つために、その上部、両側のレンガを少しずつせり出して成立させていた。まだアーチという技術のない時代である。アーチやドーム、ヴォールト(半円筒形の屋根)といった、90度直交座標にとらわれない合理的な構造も多く生まれ、普及した。だが、それらは特殊な要求(橋、無柱大空間の屋根など)を達成するときにこそ用いられるが四角い建物の方が圧倒的に多い。また今でも四角にとらわれない建築の形態や空間を前衛的な建築デザイナーが模索、提案している。それは例えば自然界に着想を得た、力学的に合理的なものであったり、柔らかな曲面で空間を構成することによりかつてないような空間体験を生むものであったりと様々である。ただそれはあくまで「四角が全てではない」というカウンターカルチャー的スタンスのものとして今後も居座るのだろう。今も昔も変わらず90度こそ人間的な角度であり、四角こそ人間的な形なのだ。

2007/11/04

イメージの中の観音寺




観音寺。小さい頃祖父母に連れられて何度か来た街。ちっくんたちが青春を過ごした街。9月のある日、母と2人その観音寺の駅に降り立った。そして駅近くの観光案内所でたまたま見つけたレンタサイクルで街を巡った。レンタサイクルといっても、2台ともかまきり形のハンドルで十分に年季の入った代物である。漕ぎ出すと、なにかおかしくなって笑ってしまった。

駅の北側・財田川の一帯をうろうろした。けれど地図を見ていてもどの道を走っているのかいまいちわからなかった。1つは観光マップの地図が大まかなもので、地図上にない道が何本もあるからだと思う。もう1つはそれと関連するが、道が鋭角に交わる交差点、目抜き通りがほとんどといって良いほど無いこと。わかりづらいがとてもおもしろい街だ。ちっくんは「当時(高校時代)観音寺にマクドナルドというものがなかった。今もない。」と言っていた。時代は変わり駅の南側にはgilsonが祖父母と行ったと思われるサティもできている。ちっくんの時代の観音寺はおそらく残っていないだろうと予想していた。だが予想に反してマクドナルドなど見当たらなかった、少なくとも自転車で駆け巡った一帯では。財田川沿いの風景はちっくんたちの時代となんら代わっていないようであった。夕日をバックに自転車で橋を渡るちっくんのシルエットが目に浮かぶ。

財田川の北側へ出て、気の向くままに自転車を走らせていると、レンガ塀が多く目に付くようになってきた。そのまま行くと出隅になった防波堤が見える。湘南でピンポンの舞台を巡ったときと同じく、台詞が浮かんできた。ちっくんが終身バンドリーダーに任命される場所である。防波堤に登ると穏やかな燧灘が見える。有明浜の砂浜も。

gilsonが持っていた観音寺のイメージは壊されず、むしろ鮮明になった。

2007/10/14

色について

5時半過ぎ、大学からバイト先へと自転車をこぐ。まわりを木々に囲まれた道を進む。緩い坂を上りきったところで、大きな交差点に差し掛かる。ちょうどキャンパスの端のところ。赤信号で小休止。そこでふと見える夕景の空は淡いグラデーションをしていた。橙色から白へ、白から青へ。その交差点の西側は下り坂になっており、西の空は広く開いている。

沖縄で見た、透き通るような海の色、空の色。多様な紅がちりばめられた、山の紅葉。学内のイチョウの黄色や新緑。心に残る色のイメージが幾つもある。gilsonがシャッターを切る瞬間の何割かは、その色を残したい、伝えたいという衝動によるのだろう。その色を切り取ることで呼び起こされる感動みたいなものを求めているのかもしれない。

実際の色と人間のイメージの中の色、実は少し異なると聞いたことがある。一言で言えば、イメージの方が鮮やか、つまり彩度が高いということ。それに合わせて写真やモニタも本来より鮮やかな発色をする。ただ、同じ光景を撮った写真でも撮るものやモニタ、プリンタが違えば色味が異なり、印象が違ってくる。かつてなら、好きな発色のフィルムを使って好きな色味を出していたのだろう。コダックブルーとはその典型だろう。だが、デジカメではそうはいかない。好きな発色のメーカー(あるいはカメラ)を選ぶということになる。カメラ(レンズ)とフィルムのバリエーションでまさに多彩な写真を撮ることができる。そういった意味でフィルムカメラは柔軟で、拡張性の高いシステムだったと思う。一方で、写真の発色などはフィルム、カメラだけで決まるものではない。現像で明るさの調整等を行う。フィルムのカラー写真を個人で現像するのは難しいので、カメラ屋などに頼むことになる。その点、デジカメ写真はレタッチで色味だけでなく、あらゆる編集ができる。邪魔な電線を消すこともたやすい。最近はソフトも簡単で使いやすい。ただ、モニタ上でレタッチを終えていざプリントしてみると色味や明るさが全然違ってがっかりする。特にプリントはまだまだ自分の知識や経験が足りないと思う。

2007/10/05

模様替え


↑模様替え前後のプラン(間取図),右が現在の間取。クリックで拡大。


この5月に大きな家具を購入した。引っ越し以来初めてである。それと同時に3年間そのままだった部屋の(家具の)レイアウトも替えた。建築学科に所属しているせいか、部屋に関しては不満が多く目に付く。RCなのに内断熱、上階の音漏れ、窓の結露、せせこましい水周り等々、枚挙にいとまがない。まあ、日本のワンルームアパートはどこも似たようなものだろう(日本の住宅の問題点については別の機会に述べるつもり)。今の部屋で一番問題なのは、収納の不足だった。家具を買ったのもそのため。上の図で赤く縁取られた灰色の四角が今回買った衣類収納。それ以外に部屋にあるのはデスク、本棚、テーブル、テレビ、カーペットである。ちなみに破線はふとんを示している。(図面上にはないが左のプランの左下隅には衣類掛けを置いてあった)模様替えに際して考慮したことは、使い勝手が良く、片づけがしやすいレイアウトにするということ。例えば、下着類は右上の押入れの中のケースにしまってあるが上着類は左下隅のところにかけてある。1つの動作で場所を行き来するのは面倒である。また、ベランダに洗濯機が置いてあるのだが、衣類掛けのすぐ右側に洗濯物のかごが置き放しになる。その結果として部屋の南側半分がデッドスペース化し、散らかってくる。それは、着替え・洗濯以外の動作・居場所が北側半分で完結しているということも要因の1つだった。それから、デスクの位置に関して、1人暮らしなので座るところが動線をさえぎっていても問題ないはずなのだが、何か落ち着かない。なので、次第にデスクは使われる機会が減っていった。ノートPCはいつもテーブルで使っていた。このデスクを動かす必要性と、衣類収納を押入れ周辺にまとめたいという願望から、もとのレイアウトを180度回転させたものがうまくいくような気がした。デスクには手元照明があるが、どうせなら部屋の照明もデスクに向かって左後ろの方向にがある方が物を書くの時都合がいい。テレビは左上へ。レイアウトを考えるときすでに衣類収納の欲しいものに目星を付け、寸法もチェックしていた。だが欲しい衣類収納は右上の壁面には納まらない。納まるものがあっても容量的に足りないだろう。それに壁面に納めると押入れの開き戸が開かない、開け放しても間口が狭くなって使えない。ここはあえて左の図のように配した。そうすると右上の1㎡弱のスペースをブース化できる。1歩も動かずに着替えられる。また滅多にないが、物が散らかった時はとりあえずブースに放り込んでおけば動線は確保され、「足の踏み場がない」という状態は、まずなくなる。カーペットとテーブルの床座の居場所を左下に配したのは良かったと思っている。隅は落ち着くし、せっかくなら南の窓側に居場所があったほうが良い。窓には隣棟しか映らないので南を向いていたってしょうがない。今回の模様替えでこの部屋もだいぶ快適になった。ただ、1つだけこの模様替えを阻むものがあった。電話線(インターネット用)の受け口が元のデスクのそばに、テレビのアンテナ線の受け口が元のテレビのそばにあったこと。ほんの少しだけためらったが、このレイアウトには妙に自信があり、なんとしても模様替えを完遂したかった。それに、ケーブルや金具を買ったり、DIYの作業を計画したりすることこそ煩わしかったものの、(父親譲りなのだろうか)作業自体は苦ではなかったし、すんなりと幅木にケーブルを這わせられた。

建築設計は得意な方ではないし、後悔ばかりが残っているけれど、これは我ながらうまくいったなと半年近く経った今も満足の出来である。

2007/10/03

花巻とろろそば

先の記事「旅とは」の実家へ帰る途中、梅田で昼食をとったときの出来事。

自販機で食券を買う、セルフサービスの店やった。gilsonの前で食券を買っとったおばちゃんのおつり20円のうち10円が跳ねて地面に落ちた。「10円飛び落ちてナァ、いやびっくりしたわ~」と、赤の他人のgilsonに話しかけてくるあたり、さすが大阪のおばちゃんやと思う。

「花巻とろろそば」の食券を買い、カウンターに渡す。ほどなく「花巻とろろそばでお待ちのお客様~」との声がしたんで立ち上がったけど、一足先にさっきのおばちゃんが取りに行った。おばちゃんも同じ「花巻」やったんか。

他のメニューが3~4品呼ばれた後に、「ハモ天ざるそばでお待ちのお客様~」の呼び声。何回か呼ばれても、誰も取りに行かない。あれ、間違えてハモ天を頼んだんかな、と思ってテーブルのメニュー表で値段を確認する。いや、やっぱり「花巻とろろそば・480円」で合ってる。それにしても遅いなぁ。gilsonの「花巻」はどうなっとんや。誰も「ハモ天」を取りに行かないし、さすがにおかしいと思って店員に聞く。「いや~食券がハモ天ざるそばになってるんで…」と「ハモ天ざるそば・580円」の食券を見せられる。gilsonは480円しか払ってないから「ハモ天」のはずがないと伝えると、苦笑交じりに「ただいまお作り致しますので」との応えが返ってきた。

そのとき確信した。「ハモ天ざるそば」を注文したんは、あのおばちゃんに違いない。
おばちゃんのおつりは20円やった。最初はgilsonと同じ「花巻」のおつりやと思ったけど、「ハモ天」でもおつりは20円になる。何を頼んだかなんて食券を出した瞬間に忘れてしまったんやろ、おばちゃん。それで、最初に出てきたモンを適当に受け取った、と。

おばちゃんはgilsonが食べるはずやった花巻とろろそばをさっさと平らげて、店を出て行った。おばちゃん、100円損したで。

2007/10/01

院試までの悶々とした日々

7月末に4年前期が終わり8月末までの約1ヶ月間、大学院入試の勉強に専念していた。教授はこの期間を「自己軟禁状態」と表現したと記憶している。まさにその通りだった。

朝8時には起き、朝食を摂って10時までには研究室の自分のデスクへ。あるいは9時半頃着いて研究室で朝食。どちらにせよ通学時にコンビニか生協に寄り、昼食を買う。それは、今年は特に暑かったので昼間に外に出たくないというのが一番の理由だった。暑かったといえば、就寝時エアコンこそ数回しか付けなかったものの、シャワーを朝・夜の2回浴びた。起きたときに気づく寝汗が気持ち悪かった。夕食も外食か弁当で済ませ、夜の10時頃帰宅。こんなに規則正しい生活は大学入学以来初めてではないかと思うぐらい毎日同じリズムだった。ただ、長時間研究室にいるだけで、メリハリのない勉強をしていたと反省している。3~4割の時間はうわの空だったのではないか。それも焦りの一因だった。

研究室に着くと、とりあえずPCを付け、帰るまで付け放し。見知らぬ先輩が残していった、要点や用語の説明をまとめたデータを閲覧したり、インターネットで調べ物をしたりするのに使う。データとして資料が残っているあたり、さすがは計算工学に長けた研究室だと思う。ただ、試験の勉強は紙とペンに限る。この1ヶ月で痛感した。紙とペンは人の思考を補助し、人は紙とペンによって頭の中だけでは行えない思考をスムースに行うことが出来る。コンピュータも基本的にはこれらと同じように扱うべきだ。さて、試験の勉強だが過去の問題を解くことがそのほとんどだった。最終的には7~8年ほど遡って解いたように思う。同じく院試の勉強で先輩が解いた物がバインダーで綴じられ、研究室の本棚にいくつか並べられている。これを適宜参考にしながら解いた。建築材料は、用語説明を50字や200字で要求する問題が毎年のように出ており、今年も出た。このために書籍を1冊購入し、マーカーで線を引いたり、そらでノートに200字書いたりした。1回では覚えられず、2回、3回と書きなぐった語句もあった。あとは関連する講義のテキスト・ノート・プリントを復習したり、要点をまとめたりということを行った。英語に関しては、単語嫌いもあってか、1ヶ月くらいで(専門ほど)得点の伸びは期待できないと観念していた。なので、過去問で雰囲気を掴む程度にとどめた。

この1ヶ月間、最初の頃はまだ良かった。勉強時に出会う「そういうことだったのか!」というある種の驚きと感動が、意欲を後押しする。やることもいっぱいある。時間的にもまだ差し迫っておらず、多少余裕を持つことができる。しかし、中旬以降来る日も来る日も暑苦しいのと同様に、勉強しか目の前に用意されていない。こんな日々は早く過ぎ去ってしまえばいいのにと何度思ったことか。その一方で、毎日毎日勉強しているのに、どれだけやっても終わらない、終わらせられない、そんな気になる。どれだけ時間があっても足りないとさえ思えてくる。それでも1つ1つをこなしていくしかない。この焦りと苛立ちは直前まで続いた。最後の2~3日はそれまでの勉強の総復習をした。今さら新しいことを覚えるよりも、今までの内容をより確実にしようと自分に言い聞かせた。

正直、大学入試よりも辛かった。建築学科の学部4年は40人弱。うち30人前後が大学院に進学。さらにそのほとんどがそのまま同じ大学の大学院への進学を希望する。gilsonも含め、他の大学院入試を受けない人ばかりである(他の大学院には2次募集というものもあるが)。外部からの受験者も今年は多くあったそうだ。もし、gilsonや他の内部の学生が落ちるということは何を意味するのか。公開処刑のようなものだといってもいいかもしれない。軟禁の後に待っているのが公開処刑とは、なんとも酷な話である。すでに所属している研究室に翌年以降も修士課程として所属することを誰もが期待している。もし不合格なら、その人たちに目に見えてわかる。大学入試はそうではない。見知らぬ敵との戦いであり、入学後所属するのもまだ見ぬ世界である。落ちても身の回りに知れるだけ。それに浪人と呼ばれる人はどこにでもいるくらいに落ちることは珍しくない。院試の方がより辛く、しんどかったのはこの違いだろう。

試験の日はカレンダーどおりにやってきた。試験前日、翌日もその翌日もその日までと同じく研究室で勉強をしているような気がしていた。その日まで繰り返してきた日常が次の日からも同じように繰り返すような感覚。試験日という実感は全くなかった。試験開始は9時で、その30分前から説明が始まる。7時半頃に研究室へ行き、朝食を摂った。8時過ぎに試験会場へ行く。思った以上に知らない人が多く、少し驚いた。そこから9時まで、心臓の鼓動が次第に速く、はっきりとするのが自分でもわかった。だがそれも9時まで。問題を解き始めれば、問題用紙に集中できた。2日間の日程の最後、13時過ぎの面接で退室しドアが閉じた途端、一気に力が抜けた。これでこの陰鬱な日々ともおさらばだ。残りの夏休みは遊びつくすぞ、と。でもその前に合否を聞かなくては。その日のうちに合否が決まるから。9月初旬に郵送で届く判定結果を待っても良いのだが、いち早く知りたければその日のうちに所属する研究室の教授の口から伝えてもらうというのが慣わしのようになっている。全員の面接の終了から見て結果が判るのは8時か9時だろうということで、研究室で待機していた。何をするでもなく自分のデスクのところに座り、改めて勉強に必要なものが揃った身の回りを見回した。ディスプレイの右側には過去問などを解いたノートやバインダー、それにA4以上の大きめのテキストが並べてある。背面の本棚にはA5以下のテキスト。デスクの一番下の引き出しには講義のプリントが、講義名毎にクリアファイルに入れられ、その背を上に向けて並んでいる。それから、何気なくPCを付けぼんやりとネットサーフィンをしていた。でも7時を過ぎたあたりから急に落ち着かなくなった。研究室のドアが開くたびに振り返った。教授が来たんじゃないか、と。ドアの音に過敏になっていた。8時前、教授は不意にやってきた。気づいたとき、教授はすでに部屋の中で、ドアは閉まっていた。gilsonや他のB4の合格の旨を伝え、教授は去っていった。その場にいたM1、M2の先輩に祝われながら、目元を拭っていた。「よかった、ほんとよかった。」そうつぶやいた。

その晩、「院試合格祝い」の居酒屋で飲んだビールはこの上なく旨かった。

2007/09/28

旅とは

9月某日、10時発の近鉄特急に乗って帰省。名駅へは余裕を持って市バスで向かう。コンコース内の書店で文庫本を物色、1冊を購入。コンコースやホームはターミナル特有の趣がある。行き交う人であふれるが、誰一人としてその場所にとどまってはいない。改札を抜けホームへ行き特急の到着を待つ。やがてアナウンスを伴って特急が入線する。車体の正面が減速しながら近づき、待つ人々を舐めながらホームの奥で止まる。その特急で大阪までは約2時間。文庫本を読んだり、車窓を流れる景色をぼんやり眺めたり、他愛もない考え事をしたり。この間のルートは山間部を多く通るため、杉が多く植わった山などの濃い緑をよく目にする。大阪でバスに乗り換えるが、バスターミナルまでは地下鉄を使う。地下鉄はいわば市民の足。聞こえてくる言葉も含め、どこかローカルな空気が漂っている。日常的に乗っている人の目には、gilsonもstrangerとして映るのだろうか?と妄想めいたことを考えながらホームへ降りる。バスの発車までに簡単に昼食を済ませて、ターミナルで乗車券を買う。13時、定刻どおりバスが出発。今日の乗客は中高年の人が多い。「~けん。」、「~しよわい。」など、バス内はすでに海を渡った向こうの雰囲気がある。バスはさらに神戸で客を乗せ、湾岸部を走る。この先の2つの橋など海がよく見える車窓は、先ほどの特急とは対照的だ。車中、特急の中と同じように過ごした。1冊読み終え、少ししてからgilsonが降りる停留所に着いた。18時前、いつもなら日もすでに暮れて薄暗くなってから停留所に着くと記憶していたが、まだ日は西の低い位置にあった。まださほど日が短くないということか。6時のチャイムを懐かしみながら、家路についた。

物事には始まりと終わりがある。それは普通、旅についても同じである。その始まりと終わりは、往路と復路とすることも出来るだろう。旅とは、ある限定された時間を日常とはかけ離れた空間で過ごすことであると考える。旅の中で、始まりと終わりは特に重要な意味合いがあると思っている。旅を図(=figure)、日常を地(=ground)としたとき、往路と復路は図と地の境界とできる。往復の時間が長いほど、あるいははっきりしているほど、旅の経験は非日常として強く意識される。往路をたどる時間は、期待感や高揚感で演出される。復路はその旅を振り返るようにして日常へ戻っていく。建築や空間のアプローチもそういった期待感や高揚感をデザインしているように思う。建築のスケールを超えているが、往路と復路の演出の良い例は、瀬戸内海に浮かぶアートの島、直島へのアクセスだろう。どんな交通手段をとろうとも最終的には、宇野あるいは高松からフェリーに乗って直島へ向かう。本州に暮らす人も四国に暮らす人も、自分の日常と陸続きでない場所である。そのアプローチの特異さもあいまって直島での体験は特別なものとなる。

2~3時間で帰省できる人たちが、帰省をどうとらえているかは知らない。しかし少なくともgilsonは、次のように感じている。すでに日常ではなくなったはずの実家での生活が、それまで当然存在していたかのように横たわっている。今日来たはずなのに、昨日までもそこにいたかのような感覚。そして自分は18歳の頃のままである。もう1つの日常をなぞっているような気分。

帰省の帰り、そんなことを考えていた。

2007/09/26

通学時のシークエンス(転記)

朝は授業開始の10~15分前に家を出て自転車で通学。
夾竹桃の垣根沿いに坂を上り、大学の西側出入口から入るが、特に1限前は歩行者と自転車しか入れない狭い入り口に自転車の列(数台)ができる。そこから敷地に入ると幅2~3m程度の通路があり、その左側にイチョウ並木が40~50m続く。イチョウの奥の10mほど下がったところに付属高校のグラウンドがあり、帰宅時はよく部活動をやっているのが見える。イチョウ並木を抜けると幅10m程度の車も通る交差点に差し掛かり、その南側の全学棟を目指す多くの1、2年生とすれ違う。彼らの若さがまばゆいと感じるのはgilsonだけでないはず。その交差点を左に曲がり、1.5m程度高くなったグラウンド(3グリ)を右に眺めつつ、東西に通るグリーンベルトの北側に出る。そしてグリーンベルト沿いに東へ向かうが、このあたりは工学部の建物が立ち並んでいるためか、男ばかりで「ムサい」印象を受ける。逆にグリーンベルトの南側は1,2年生や文系の学生が多くアウェー感があるので、いつも回避している。今の時期グリーンベルトの両脇の道は、左右の常緑樹と落葉樹の色の対比が美しい。グリーンベルト沿いに直進すると大学の敷地を貫く公道に突き当たる。それを超えると4号館に着く。

イチョウ並木などは学内でもいいなと思える場所の1つだ。他には公道の東側の地区の森々した雰囲気も結構気に入っている。5号館の教室の窓でトリミングされる木々には癒される。丘陵地帯を整地して作られたキャンパスなので学内やその周辺でアップダウンが激しいのはあまりいただけないが、日々季節の変化を感じられるのはありがたい。