2007/10/14

色について

5時半過ぎ、大学からバイト先へと自転車をこぐ。まわりを木々に囲まれた道を進む。緩い坂を上りきったところで、大きな交差点に差し掛かる。ちょうどキャンパスの端のところ。赤信号で小休止。そこでふと見える夕景の空は淡いグラデーションをしていた。橙色から白へ、白から青へ。その交差点の西側は下り坂になっており、西の空は広く開いている。

沖縄で見た、透き通るような海の色、空の色。多様な紅がちりばめられた、山の紅葉。学内のイチョウの黄色や新緑。心に残る色のイメージが幾つもある。gilsonがシャッターを切る瞬間の何割かは、その色を残したい、伝えたいという衝動によるのだろう。その色を切り取ることで呼び起こされる感動みたいなものを求めているのかもしれない。

実際の色と人間のイメージの中の色、実は少し異なると聞いたことがある。一言で言えば、イメージの方が鮮やか、つまり彩度が高いということ。それに合わせて写真やモニタも本来より鮮やかな発色をする。ただ、同じ光景を撮った写真でも撮るものやモニタ、プリンタが違えば色味が異なり、印象が違ってくる。かつてなら、好きな発色のフィルムを使って好きな色味を出していたのだろう。コダックブルーとはその典型だろう。だが、デジカメではそうはいかない。好きな発色のメーカー(あるいはカメラ)を選ぶということになる。カメラ(レンズ)とフィルムのバリエーションでまさに多彩な写真を撮ることができる。そういった意味でフィルムカメラは柔軟で、拡張性の高いシステムだったと思う。一方で、写真の発色などはフィルム、カメラだけで決まるものではない。現像で明るさの調整等を行う。フィルムのカラー写真を個人で現像するのは難しいので、カメラ屋などに頼むことになる。その点、デジカメ写真はレタッチで色味だけでなく、あらゆる編集ができる。邪魔な電線を消すこともたやすい。最近はソフトも簡単で使いやすい。ただ、モニタ上でレタッチを終えていざプリントしてみると色味や明るさが全然違ってがっかりする。特にプリントはまだまだ自分の知識や経験が足りないと思う。

2007/10/05

模様替え


↑模様替え前後のプラン(間取図),右が現在の間取。クリックで拡大。


この5月に大きな家具を購入した。引っ越し以来初めてである。それと同時に3年間そのままだった部屋の(家具の)レイアウトも替えた。建築学科に所属しているせいか、部屋に関しては不満が多く目に付く。RCなのに内断熱、上階の音漏れ、窓の結露、せせこましい水周り等々、枚挙にいとまがない。まあ、日本のワンルームアパートはどこも似たようなものだろう(日本の住宅の問題点については別の機会に述べるつもり)。今の部屋で一番問題なのは、収納の不足だった。家具を買ったのもそのため。上の図で赤く縁取られた灰色の四角が今回買った衣類収納。それ以外に部屋にあるのはデスク、本棚、テーブル、テレビ、カーペットである。ちなみに破線はふとんを示している。(図面上にはないが左のプランの左下隅には衣類掛けを置いてあった)模様替えに際して考慮したことは、使い勝手が良く、片づけがしやすいレイアウトにするということ。例えば、下着類は右上の押入れの中のケースにしまってあるが上着類は左下隅のところにかけてある。1つの動作で場所を行き来するのは面倒である。また、ベランダに洗濯機が置いてあるのだが、衣類掛けのすぐ右側に洗濯物のかごが置き放しになる。その結果として部屋の南側半分がデッドスペース化し、散らかってくる。それは、着替え・洗濯以外の動作・居場所が北側半分で完結しているということも要因の1つだった。それから、デスクの位置に関して、1人暮らしなので座るところが動線をさえぎっていても問題ないはずなのだが、何か落ち着かない。なので、次第にデスクは使われる機会が減っていった。ノートPCはいつもテーブルで使っていた。このデスクを動かす必要性と、衣類収納を押入れ周辺にまとめたいという願望から、もとのレイアウトを180度回転させたものがうまくいくような気がした。デスクには手元照明があるが、どうせなら部屋の照明もデスクに向かって左後ろの方向にがある方が物を書くの時都合がいい。テレビは左上へ。レイアウトを考えるときすでに衣類収納の欲しいものに目星を付け、寸法もチェックしていた。だが欲しい衣類収納は右上の壁面には納まらない。納まるものがあっても容量的に足りないだろう。それに壁面に納めると押入れの開き戸が開かない、開け放しても間口が狭くなって使えない。ここはあえて左の図のように配した。そうすると右上の1㎡弱のスペースをブース化できる。1歩も動かずに着替えられる。また滅多にないが、物が散らかった時はとりあえずブースに放り込んでおけば動線は確保され、「足の踏み場がない」という状態は、まずなくなる。カーペットとテーブルの床座の居場所を左下に配したのは良かったと思っている。隅は落ち着くし、せっかくなら南の窓側に居場所があったほうが良い。窓には隣棟しか映らないので南を向いていたってしょうがない。今回の模様替えでこの部屋もだいぶ快適になった。ただ、1つだけこの模様替えを阻むものがあった。電話線(インターネット用)の受け口が元のデスクのそばに、テレビのアンテナ線の受け口が元のテレビのそばにあったこと。ほんの少しだけためらったが、このレイアウトには妙に自信があり、なんとしても模様替えを完遂したかった。それに、ケーブルや金具を買ったり、DIYの作業を計画したりすることこそ煩わしかったものの、(父親譲りなのだろうか)作業自体は苦ではなかったし、すんなりと幅木にケーブルを這わせられた。

建築設計は得意な方ではないし、後悔ばかりが残っているけれど、これは我ながらうまくいったなと半年近く経った今も満足の出来である。

2007/10/03

花巻とろろそば

先の記事「旅とは」の実家へ帰る途中、梅田で昼食をとったときの出来事。

自販機で食券を買う、セルフサービスの店やった。gilsonの前で食券を買っとったおばちゃんのおつり20円のうち10円が跳ねて地面に落ちた。「10円飛び落ちてナァ、いやびっくりしたわ~」と、赤の他人のgilsonに話しかけてくるあたり、さすが大阪のおばちゃんやと思う。

「花巻とろろそば」の食券を買い、カウンターに渡す。ほどなく「花巻とろろそばでお待ちのお客様~」との声がしたんで立ち上がったけど、一足先にさっきのおばちゃんが取りに行った。おばちゃんも同じ「花巻」やったんか。

他のメニューが3~4品呼ばれた後に、「ハモ天ざるそばでお待ちのお客様~」の呼び声。何回か呼ばれても、誰も取りに行かない。あれ、間違えてハモ天を頼んだんかな、と思ってテーブルのメニュー表で値段を確認する。いや、やっぱり「花巻とろろそば・480円」で合ってる。それにしても遅いなぁ。gilsonの「花巻」はどうなっとんや。誰も「ハモ天」を取りに行かないし、さすがにおかしいと思って店員に聞く。「いや~食券がハモ天ざるそばになってるんで…」と「ハモ天ざるそば・580円」の食券を見せられる。gilsonは480円しか払ってないから「ハモ天」のはずがないと伝えると、苦笑交じりに「ただいまお作り致しますので」との応えが返ってきた。

そのとき確信した。「ハモ天ざるそば」を注文したんは、あのおばちゃんに違いない。
おばちゃんのおつりは20円やった。最初はgilsonと同じ「花巻」のおつりやと思ったけど、「ハモ天」でもおつりは20円になる。何を頼んだかなんて食券を出した瞬間に忘れてしまったんやろ、おばちゃん。それで、最初に出てきたモンを適当に受け取った、と。

おばちゃんはgilsonが食べるはずやった花巻とろろそばをさっさと平らげて、店を出て行った。おばちゃん、100円損したで。

2007/10/01

院試までの悶々とした日々

7月末に4年前期が終わり8月末までの約1ヶ月間、大学院入試の勉強に専念していた。教授はこの期間を「自己軟禁状態」と表現したと記憶している。まさにその通りだった。

朝8時には起き、朝食を摂って10時までには研究室の自分のデスクへ。あるいは9時半頃着いて研究室で朝食。どちらにせよ通学時にコンビニか生協に寄り、昼食を買う。それは、今年は特に暑かったので昼間に外に出たくないというのが一番の理由だった。暑かったといえば、就寝時エアコンこそ数回しか付けなかったものの、シャワーを朝・夜の2回浴びた。起きたときに気づく寝汗が気持ち悪かった。夕食も外食か弁当で済ませ、夜の10時頃帰宅。こんなに規則正しい生活は大学入学以来初めてではないかと思うぐらい毎日同じリズムだった。ただ、長時間研究室にいるだけで、メリハリのない勉強をしていたと反省している。3~4割の時間はうわの空だったのではないか。それも焦りの一因だった。

研究室に着くと、とりあえずPCを付け、帰るまで付け放し。見知らぬ先輩が残していった、要点や用語の説明をまとめたデータを閲覧したり、インターネットで調べ物をしたりするのに使う。データとして資料が残っているあたり、さすがは計算工学に長けた研究室だと思う。ただ、試験の勉強は紙とペンに限る。この1ヶ月で痛感した。紙とペンは人の思考を補助し、人は紙とペンによって頭の中だけでは行えない思考をスムースに行うことが出来る。コンピュータも基本的にはこれらと同じように扱うべきだ。さて、試験の勉強だが過去の問題を解くことがそのほとんどだった。最終的には7~8年ほど遡って解いたように思う。同じく院試の勉強で先輩が解いた物がバインダーで綴じられ、研究室の本棚にいくつか並べられている。これを適宜参考にしながら解いた。建築材料は、用語説明を50字や200字で要求する問題が毎年のように出ており、今年も出た。このために書籍を1冊購入し、マーカーで線を引いたり、そらでノートに200字書いたりした。1回では覚えられず、2回、3回と書きなぐった語句もあった。あとは関連する講義のテキスト・ノート・プリントを復習したり、要点をまとめたりということを行った。英語に関しては、単語嫌いもあってか、1ヶ月くらいで(専門ほど)得点の伸びは期待できないと観念していた。なので、過去問で雰囲気を掴む程度にとどめた。

この1ヶ月間、最初の頃はまだ良かった。勉強時に出会う「そういうことだったのか!」というある種の驚きと感動が、意欲を後押しする。やることもいっぱいある。時間的にもまだ差し迫っておらず、多少余裕を持つことができる。しかし、中旬以降来る日も来る日も暑苦しいのと同様に、勉強しか目の前に用意されていない。こんな日々は早く過ぎ去ってしまえばいいのにと何度思ったことか。その一方で、毎日毎日勉強しているのに、どれだけやっても終わらない、終わらせられない、そんな気になる。どれだけ時間があっても足りないとさえ思えてくる。それでも1つ1つをこなしていくしかない。この焦りと苛立ちは直前まで続いた。最後の2~3日はそれまでの勉強の総復習をした。今さら新しいことを覚えるよりも、今までの内容をより確実にしようと自分に言い聞かせた。

正直、大学入試よりも辛かった。建築学科の学部4年は40人弱。うち30人前後が大学院に進学。さらにそのほとんどがそのまま同じ大学の大学院への進学を希望する。gilsonも含め、他の大学院入試を受けない人ばかりである(他の大学院には2次募集というものもあるが)。外部からの受験者も今年は多くあったそうだ。もし、gilsonや他の内部の学生が落ちるということは何を意味するのか。公開処刑のようなものだといってもいいかもしれない。軟禁の後に待っているのが公開処刑とは、なんとも酷な話である。すでに所属している研究室に翌年以降も修士課程として所属することを誰もが期待している。もし不合格なら、その人たちに目に見えてわかる。大学入試はそうではない。見知らぬ敵との戦いであり、入学後所属するのもまだ見ぬ世界である。落ちても身の回りに知れるだけ。それに浪人と呼ばれる人はどこにでもいるくらいに落ちることは珍しくない。院試の方がより辛く、しんどかったのはこの違いだろう。

試験の日はカレンダーどおりにやってきた。試験前日、翌日もその翌日もその日までと同じく研究室で勉強をしているような気がしていた。その日まで繰り返してきた日常が次の日からも同じように繰り返すような感覚。試験日という実感は全くなかった。試験開始は9時で、その30分前から説明が始まる。7時半頃に研究室へ行き、朝食を摂った。8時過ぎに試験会場へ行く。思った以上に知らない人が多く、少し驚いた。そこから9時まで、心臓の鼓動が次第に速く、はっきりとするのが自分でもわかった。だがそれも9時まで。問題を解き始めれば、問題用紙に集中できた。2日間の日程の最後、13時過ぎの面接で退室しドアが閉じた途端、一気に力が抜けた。これでこの陰鬱な日々ともおさらばだ。残りの夏休みは遊びつくすぞ、と。でもその前に合否を聞かなくては。その日のうちに合否が決まるから。9月初旬に郵送で届く判定結果を待っても良いのだが、いち早く知りたければその日のうちに所属する研究室の教授の口から伝えてもらうというのが慣わしのようになっている。全員の面接の終了から見て結果が判るのは8時か9時だろうということで、研究室で待機していた。何をするでもなく自分のデスクのところに座り、改めて勉強に必要なものが揃った身の回りを見回した。ディスプレイの右側には過去問などを解いたノートやバインダー、それにA4以上の大きめのテキストが並べてある。背面の本棚にはA5以下のテキスト。デスクの一番下の引き出しには講義のプリントが、講義名毎にクリアファイルに入れられ、その背を上に向けて並んでいる。それから、何気なくPCを付けぼんやりとネットサーフィンをしていた。でも7時を過ぎたあたりから急に落ち着かなくなった。研究室のドアが開くたびに振り返った。教授が来たんじゃないか、と。ドアの音に過敏になっていた。8時前、教授は不意にやってきた。気づいたとき、教授はすでに部屋の中で、ドアは閉まっていた。gilsonや他のB4の合格の旨を伝え、教授は去っていった。その場にいたM1、M2の先輩に祝われながら、目元を拭っていた。「よかった、ほんとよかった。」そうつぶやいた。

その晩、「院試合格祝い」の居酒屋で飲んだビールはこの上なく旨かった。