2009/02/22

what he(/she) chooses, what he(/she) watches

例えば、何人かで旅行へ行き、各自100枚ずつ写真を撮るとしよう。そうやって撮った写真には、まさに十人十色な傾向が現れるだろう。1枚1枚ではその傾向が弱くても、100枚集まればその人はどういうものに注目していたか、どういうものに注目していなかったかが明らかになる。
同じことが、言葉にも言えると思う。特に、比喩の仕方にはその人の内面が現れる。親しくなった、あるいは親しくなっていくであろうその人と何度も話をする中で、よく使う比喩、言葉、仕草というものこそが、その人らしいな、と僕は思う。
それはこういうことではないだろうか。人間とは、観察し学習していく生き物だ。自分が触れる、あらゆるものを人間は観察している。植物、気候といった物理的な物・現象、他人の言動、書物などなど。その観察によって得られた情報を自我が咀嚼し、消化する(学習)。そしてそれ以後の表現や行動に影響を与える。例えば、書物の中に自分の琴線に触れ、「これは」と思うような表現を見つけ、十分に消化しきれたら、その表現が新たに自分のボキャブラリーとして定着するというようなことである。
以上をふまえた上で考えたことがある。フジテレビの番組「とんねるずのみなさんのおかげでした」の中の1コーナー、博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜について。最近は年に数回程度の頻度で行われている。タイトルの通り、「知らんわ!(モノマネの対象を)」と思うようなモノマネを何人もが次々と披露していくコーナーである。視聴者の大半が真似される対象を知らないと思われるが、当コーナーは人気を博している。それはなぜか。このコーナーにおけるモノマネに、その人の観察、消化、表現という行為が全て現れているからではないだろうか。その人が何に興味を持っていて、何を面白いと思った上で、その面白さを表現したかに尽きる。細部にこだわることは、その人の観察力の確かさを伺わせる。
最後に。森博嗣氏は言った、「作家が持っている最大の力とは、文章力でなく、人物観察力である。」と。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

人との交わりの喜びはここにあります。好きな読書とか映画、あるいは「食」について語りながら、「その人らしさ」を感じます。時にチャーミングな人に出会い、少しずつその人に近づいていくプロセスは幸せです。ボチボチと長年かけてが良いと、近頃思っています。
私にとって、月一回の読書会がそういう味わいです。十数年、年間10冊以上の本を読んで、好きなことを言い合う会は気楽ながら、人間観察の怖い場でもあります。す。
こだわりが『細部』であり具体的である人に真実を感じます。何でも大きく「括る」人の話は、やはり面白くないです。

hirottyan さんのコメント...

またまた面白いお題を提供してくれました。私はこんなふうに考えます。

人は未知なるものと出合ったとき「類似」「相似」「類推」などでアナライズして、それをその人の既知なる体系の中に位置づけしようとします。とりあえず「自分の棚」のどこかに収めたいのです。

また既知なるものと再会したときには、他の既知なるものとの「相違」「差異」「隔たり」などを見出そうとします。ピントを合わせてそれを「見分けられる」ようにしたいのです。

このようなときに、何をもってそれと類似なもの、相違しているものと見立てるのか。その場合の引用や、参照の中身というものは、実は、その人のそれまでの経験、感受性、価値観、編集方法などの、いわばΣ(積分的総和)なのではないでしょうか。「個性」と呼ばれているものの大半は、これではないかと思うのです。

「細かすぎて伝わらない・・」について言えば、やはり視聴者は出演者が対象を捉える方法(観察力)とそれを彼の方法で再現するさま(編集技術)を楽しんでいると思えます。