2008/10/30

内面から知る

建築学科で,まだ研究室に配属される前の話。
設計の授業が始まって,市内某所に○○(例えば住宅)を設計しなさい,といった課題が与えられる。大まかなコンセプトに始まって,基本設計の図面に至るまで,進捗状況を毎週先生に見せる。それがエスキスと呼ばれるもの。机をはさんで向かいに座り,図面や模型を見せながら,ここはこういう考えでこういう形にしました。と説明する。そうすると,その形だとこういう不具合が生じる,こういう矛盾がある,整合性が取れてない,と指摘されながら,持ってきたアイデアをもっと良くするにはどうしたらいいか,を議論する。それを毎週繰り返して,最終的な図面や模型を2ヶ月程で完成させる。学科の約40人が提出したもののうち10~15点は,講評会という場で,授業担当以外の先生も迎えてプレゼンをする。その場でもダメ出しのようなコメントを多く頂く。僕は,設計の課題を何回か重ねるうちに,設計を考えるのは好きだけど,自分には向いていないな,と感じて,今の建築構造の研究室の門を叩いた。
それはさておき,講評会の後には,ほぼ毎回,打ち上げの飲み会が企画される。たいていは我々学生と先生やTAもいっしょに飲む。そうすると,先生は学生のことをいろいろ聞くわけだが,「君はどんな設計やってたっけ」という質問がこの場においてはメジャーだ。「こういう形のこういうものをやりました。」「あー,あれね。あれはちょっと○○すぎたよね」とやりとりが続く。つまり,先生は学生の顔は覚えていなくても40人40通りの設計はたいてい覚えている。また,各設計者(学生)に対する印象というものも,外見や人柄ではなく設計で決まっているように思う。僕らが雑誌などで作品を見る,有名建築家も同様だ。いろんな建物の図面や写真があり,たいてい設計した建築家の名を冠しているわけだが,作品集でもない限り,その建築家の顔を見ることはない。たまたま出くわしたその建築家の写真を見て,「この人ってこんな顔だったんだ,想像してたのと全然違う。」なんて思うことが多々ある。
考えてみれば,小説やマンガ等の作家もそうだ。たいていは,ある作品を読んで好感を覚え,同じ作家の別の作品にも手を伸ばす。後になって著者の写真を見るあるいは全く見たことがないなんてことも多々ある。

一般の社会生活では,他の人の内面をまず知るという機会はあまりない。それどころか,外見だけで人を判断してしまい,先入観を抱いてしまう。それゆえ,建築学科で経験した,内面から知る,知られるということは,すごく新鮮で,なおかつ正当な感じがした。

1 件のコメント:

hirottyan さんのコメント...

久しぶりでここを訪れてupされているを見つけ、嬉しくなって読みました。
2つの記事とも、今まで通りの「理系らしい率直さ」で好感がもてます。

10/15の記事について、コースターを持ち帰ったっていうのはいいですね。記憶は「もの」に強く収斂し、鮮やかに結晶していきます。
J・アービングの「熊を放つ」っていう小説を思い出しました。青年2人がバイクで行く先々の家で、卓上の小物を失敬するっていう痛快でほろ苦いエピソードがあります。

10/30の記事も面白いテーマを含んでいると思います。「デザイン(設計)とは何か」というものです。
「産業」においては、人は「外なるもの(社会)」に効果的に働きかけることによって、初めて「成果」を得ることができます。
外なるものへの働きかけの第一歩として「外見」が位置づけられているのではないでしょうか。

一方「芸術」においては「内なるもの(個性)」から引き出すことよってしか「真の独創」は表れません。
だからgilson氏が耳目にしているように「作品(個性が投影されたもの)が全て」ということになるのでしょうね。それを「正当」だと感じたのでしょう。

ここで「デザイン」に注目してみると、それには自己完結する「芸術」という一面と、他方では必ず「産業」に応用されなければならないという宿命を背負わされています。
考えてみれば、デザイナーやアーキテクトという人々は、「芸術家としての個性」と「産業への応用可能性」の両立という、ハイブリッドで二律背反な命題に絶えず直面させられているわけです。
きつい仕事だとも言えるし、常人では味わい得ない贅沢な喜びを感じられる仕事とも言えるのではないでしょうか。