2007/11/09

人間の作る、かたち

この稿での90度に関する考察が非常に興味深い。確かに、90度という角度は最も人間的な角度であり、自然界で見ることは少ない。なぜ人間が90度にこだわるのか。2つほど思いつく理由がある。1つは、物理学、力学、数学等、人間が築いてきた理論体系が90度、つまり直交座標系に則っているからではないだろうか。要は人間がイメージしたり把握したりするのに最も易しい座標空間なのだろう。なぜ把握しやすいのかという点までは考えが至らない。ただ、地理認識は4方位に依拠しているので、緩いカーブや複雑な交差点では混乱してしまう。4方位以上は把握しきれないのだろう。もう1つは、その形(長方形)でその拡大した形を敷き詰められるということ。逆に言えばある形を分割しても同じ形であるということ。なおかつその分割線が貫通している。これは三角形も該当する。例えば紙を製造して無駄なく使うというときにこのルールは合理的である。あるいは都市を作るときにも有意である。平城京や平安京がその最たる例だ。紙で言えば、1:√2という比率の紙の長辺を半分に分割してできた2枚の紙も1:√2である。現像写真のサイズ、A4、B5といった印刷用紙の規格がほぼこれに則っているのはよく知られている。

建物も人間が作るものなので、90度のものが多い。そのほとんどといって良いだろう。これも同じく人間の理解や把握に基づいて90度である。古代、レンガのような組積造の壁に開口を穿つために、その上部、両側のレンガを少しずつせり出して成立させていた。まだアーチという技術のない時代である。アーチやドーム、ヴォールト(半円筒形の屋根)といった、90度直交座標にとらわれない合理的な構造も多く生まれ、普及した。だが、それらは特殊な要求(橋、無柱大空間の屋根など)を達成するときにこそ用いられるが四角い建物の方が圧倒的に多い。また今でも四角にとらわれない建築の形態や空間を前衛的な建築デザイナーが模索、提案している。それは例えば自然界に着想を得た、力学的に合理的なものであったり、柔らかな曲面で空間を構成することによりかつてないような空間体験を生むものであったりと様々である。ただそれはあくまで「四角が全てではない」というカウンターカルチャー的スタンスのものとして今後も居座るのだろう。今も昔も変わらず90度こそ人間的な角度であり、四角こそ人間的な形なのだ。

2007/11/04

イメージの中の観音寺




観音寺。小さい頃祖父母に連れられて何度か来た街。ちっくんたちが青春を過ごした街。9月のある日、母と2人その観音寺の駅に降り立った。そして駅近くの観光案内所でたまたま見つけたレンタサイクルで街を巡った。レンタサイクルといっても、2台ともかまきり形のハンドルで十分に年季の入った代物である。漕ぎ出すと、なにかおかしくなって笑ってしまった。

駅の北側・財田川の一帯をうろうろした。けれど地図を見ていてもどの道を走っているのかいまいちわからなかった。1つは観光マップの地図が大まかなもので、地図上にない道が何本もあるからだと思う。もう1つはそれと関連するが、道が鋭角に交わる交差点、目抜き通りがほとんどといって良いほど無いこと。わかりづらいがとてもおもしろい街だ。ちっくんは「当時(高校時代)観音寺にマクドナルドというものがなかった。今もない。」と言っていた。時代は変わり駅の南側にはgilsonが祖父母と行ったと思われるサティもできている。ちっくんの時代の観音寺はおそらく残っていないだろうと予想していた。だが予想に反してマクドナルドなど見当たらなかった、少なくとも自転車で駆け巡った一帯では。財田川沿いの風景はちっくんたちの時代となんら代わっていないようであった。夕日をバックに自転車で橋を渡るちっくんのシルエットが目に浮かぶ。

財田川の北側へ出て、気の向くままに自転車を走らせていると、レンガ塀が多く目に付くようになってきた。そのまま行くと出隅になった防波堤が見える。湘南でピンポンの舞台を巡ったときと同じく、台詞が浮かんできた。ちっくんが終身バンドリーダーに任命される場所である。防波堤に登ると穏やかな燧灘が見える。有明浜の砂浜も。

gilsonが持っていた観音寺のイメージは壊されず、むしろ鮮明になった。

2007/10/14

色について

5時半過ぎ、大学からバイト先へと自転車をこぐ。まわりを木々に囲まれた道を進む。緩い坂を上りきったところで、大きな交差点に差し掛かる。ちょうどキャンパスの端のところ。赤信号で小休止。そこでふと見える夕景の空は淡いグラデーションをしていた。橙色から白へ、白から青へ。その交差点の西側は下り坂になっており、西の空は広く開いている。

沖縄で見た、透き通るような海の色、空の色。多様な紅がちりばめられた、山の紅葉。学内のイチョウの黄色や新緑。心に残る色のイメージが幾つもある。gilsonがシャッターを切る瞬間の何割かは、その色を残したい、伝えたいという衝動によるのだろう。その色を切り取ることで呼び起こされる感動みたいなものを求めているのかもしれない。

実際の色と人間のイメージの中の色、実は少し異なると聞いたことがある。一言で言えば、イメージの方が鮮やか、つまり彩度が高いということ。それに合わせて写真やモニタも本来より鮮やかな発色をする。ただ、同じ光景を撮った写真でも撮るものやモニタ、プリンタが違えば色味が異なり、印象が違ってくる。かつてなら、好きな発色のフィルムを使って好きな色味を出していたのだろう。コダックブルーとはその典型だろう。だが、デジカメではそうはいかない。好きな発色のメーカー(あるいはカメラ)を選ぶということになる。カメラ(レンズ)とフィルムのバリエーションでまさに多彩な写真を撮ることができる。そういった意味でフィルムカメラは柔軟で、拡張性の高いシステムだったと思う。一方で、写真の発色などはフィルム、カメラだけで決まるものではない。現像で明るさの調整等を行う。フィルムのカラー写真を個人で現像するのは難しいので、カメラ屋などに頼むことになる。その点、デジカメ写真はレタッチで色味だけでなく、あらゆる編集ができる。邪魔な電線を消すこともたやすい。最近はソフトも簡単で使いやすい。ただ、モニタ上でレタッチを終えていざプリントしてみると色味や明るさが全然違ってがっかりする。特にプリントはまだまだ自分の知識や経験が足りないと思う。

2007/10/05

模様替え


↑模様替え前後のプラン(間取図),右が現在の間取。クリックで拡大。


この5月に大きな家具を購入した。引っ越し以来初めてである。それと同時に3年間そのままだった部屋の(家具の)レイアウトも替えた。建築学科に所属しているせいか、部屋に関しては不満が多く目に付く。RCなのに内断熱、上階の音漏れ、窓の結露、せせこましい水周り等々、枚挙にいとまがない。まあ、日本のワンルームアパートはどこも似たようなものだろう(日本の住宅の問題点については別の機会に述べるつもり)。今の部屋で一番問題なのは、収納の不足だった。家具を買ったのもそのため。上の図で赤く縁取られた灰色の四角が今回買った衣類収納。それ以外に部屋にあるのはデスク、本棚、テーブル、テレビ、カーペットである。ちなみに破線はふとんを示している。(図面上にはないが左のプランの左下隅には衣類掛けを置いてあった)模様替えに際して考慮したことは、使い勝手が良く、片づけがしやすいレイアウトにするということ。例えば、下着類は右上の押入れの中のケースにしまってあるが上着類は左下隅のところにかけてある。1つの動作で場所を行き来するのは面倒である。また、ベランダに洗濯機が置いてあるのだが、衣類掛けのすぐ右側に洗濯物のかごが置き放しになる。その結果として部屋の南側半分がデッドスペース化し、散らかってくる。それは、着替え・洗濯以外の動作・居場所が北側半分で完結しているということも要因の1つだった。それから、デスクの位置に関して、1人暮らしなので座るところが動線をさえぎっていても問題ないはずなのだが、何か落ち着かない。なので、次第にデスクは使われる機会が減っていった。ノートPCはいつもテーブルで使っていた。このデスクを動かす必要性と、衣類収納を押入れ周辺にまとめたいという願望から、もとのレイアウトを180度回転させたものがうまくいくような気がした。デスクには手元照明があるが、どうせなら部屋の照明もデスクに向かって左後ろの方向にがある方が物を書くの時都合がいい。テレビは左上へ。レイアウトを考えるときすでに衣類収納の欲しいものに目星を付け、寸法もチェックしていた。だが欲しい衣類収納は右上の壁面には納まらない。納まるものがあっても容量的に足りないだろう。それに壁面に納めると押入れの開き戸が開かない、開け放しても間口が狭くなって使えない。ここはあえて左の図のように配した。そうすると右上の1㎡弱のスペースをブース化できる。1歩も動かずに着替えられる。また滅多にないが、物が散らかった時はとりあえずブースに放り込んでおけば動線は確保され、「足の踏み場がない」という状態は、まずなくなる。カーペットとテーブルの床座の居場所を左下に配したのは良かったと思っている。隅は落ち着くし、せっかくなら南の窓側に居場所があったほうが良い。窓には隣棟しか映らないので南を向いていたってしょうがない。今回の模様替えでこの部屋もだいぶ快適になった。ただ、1つだけこの模様替えを阻むものがあった。電話線(インターネット用)の受け口が元のデスクのそばに、テレビのアンテナ線の受け口が元のテレビのそばにあったこと。ほんの少しだけためらったが、このレイアウトには妙に自信があり、なんとしても模様替えを完遂したかった。それに、ケーブルや金具を買ったり、DIYの作業を計画したりすることこそ煩わしかったものの、(父親譲りなのだろうか)作業自体は苦ではなかったし、すんなりと幅木にケーブルを這わせられた。

建築設計は得意な方ではないし、後悔ばかりが残っているけれど、これは我ながらうまくいったなと半年近く経った今も満足の出来である。

2007/10/03

花巻とろろそば

先の記事「旅とは」の実家へ帰る途中、梅田で昼食をとったときの出来事。

自販機で食券を買う、セルフサービスの店やった。gilsonの前で食券を買っとったおばちゃんのおつり20円のうち10円が跳ねて地面に落ちた。「10円飛び落ちてナァ、いやびっくりしたわ~」と、赤の他人のgilsonに話しかけてくるあたり、さすが大阪のおばちゃんやと思う。

「花巻とろろそば」の食券を買い、カウンターに渡す。ほどなく「花巻とろろそばでお待ちのお客様~」との声がしたんで立ち上がったけど、一足先にさっきのおばちゃんが取りに行った。おばちゃんも同じ「花巻」やったんか。

他のメニューが3~4品呼ばれた後に、「ハモ天ざるそばでお待ちのお客様~」の呼び声。何回か呼ばれても、誰も取りに行かない。あれ、間違えてハモ天を頼んだんかな、と思ってテーブルのメニュー表で値段を確認する。いや、やっぱり「花巻とろろそば・480円」で合ってる。それにしても遅いなぁ。gilsonの「花巻」はどうなっとんや。誰も「ハモ天」を取りに行かないし、さすがにおかしいと思って店員に聞く。「いや~食券がハモ天ざるそばになってるんで…」と「ハモ天ざるそば・580円」の食券を見せられる。gilsonは480円しか払ってないから「ハモ天」のはずがないと伝えると、苦笑交じりに「ただいまお作り致しますので」との応えが返ってきた。

そのとき確信した。「ハモ天ざるそば」を注文したんは、あのおばちゃんに違いない。
おばちゃんのおつりは20円やった。最初はgilsonと同じ「花巻」のおつりやと思ったけど、「ハモ天」でもおつりは20円になる。何を頼んだかなんて食券を出した瞬間に忘れてしまったんやろ、おばちゃん。それで、最初に出てきたモンを適当に受け取った、と。

おばちゃんはgilsonが食べるはずやった花巻とろろそばをさっさと平らげて、店を出て行った。おばちゃん、100円損したで。

2007/10/01

院試までの悶々とした日々

7月末に4年前期が終わり8月末までの約1ヶ月間、大学院入試の勉強に専念していた。教授はこの期間を「自己軟禁状態」と表現したと記憶している。まさにその通りだった。

朝8時には起き、朝食を摂って10時までには研究室の自分のデスクへ。あるいは9時半頃着いて研究室で朝食。どちらにせよ通学時にコンビニか生協に寄り、昼食を買う。それは、今年は特に暑かったので昼間に外に出たくないというのが一番の理由だった。暑かったといえば、就寝時エアコンこそ数回しか付けなかったものの、シャワーを朝・夜の2回浴びた。起きたときに気づく寝汗が気持ち悪かった。夕食も外食か弁当で済ませ、夜の10時頃帰宅。こんなに規則正しい生活は大学入学以来初めてではないかと思うぐらい毎日同じリズムだった。ただ、長時間研究室にいるだけで、メリハリのない勉強をしていたと反省している。3~4割の時間はうわの空だったのではないか。それも焦りの一因だった。

研究室に着くと、とりあえずPCを付け、帰るまで付け放し。見知らぬ先輩が残していった、要点や用語の説明をまとめたデータを閲覧したり、インターネットで調べ物をしたりするのに使う。データとして資料が残っているあたり、さすがは計算工学に長けた研究室だと思う。ただ、試験の勉強は紙とペンに限る。この1ヶ月で痛感した。紙とペンは人の思考を補助し、人は紙とペンによって頭の中だけでは行えない思考をスムースに行うことが出来る。コンピュータも基本的にはこれらと同じように扱うべきだ。さて、試験の勉強だが過去の問題を解くことがそのほとんどだった。最終的には7~8年ほど遡って解いたように思う。同じく院試の勉強で先輩が解いた物がバインダーで綴じられ、研究室の本棚にいくつか並べられている。これを適宜参考にしながら解いた。建築材料は、用語説明を50字や200字で要求する問題が毎年のように出ており、今年も出た。このために書籍を1冊購入し、マーカーで線を引いたり、そらでノートに200字書いたりした。1回では覚えられず、2回、3回と書きなぐった語句もあった。あとは関連する講義のテキスト・ノート・プリントを復習したり、要点をまとめたりということを行った。英語に関しては、単語嫌いもあってか、1ヶ月くらいで(専門ほど)得点の伸びは期待できないと観念していた。なので、過去問で雰囲気を掴む程度にとどめた。

この1ヶ月間、最初の頃はまだ良かった。勉強時に出会う「そういうことだったのか!」というある種の驚きと感動が、意欲を後押しする。やることもいっぱいある。時間的にもまだ差し迫っておらず、多少余裕を持つことができる。しかし、中旬以降来る日も来る日も暑苦しいのと同様に、勉強しか目の前に用意されていない。こんな日々は早く過ぎ去ってしまえばいいのにと何度思ったことか。その一方で、毎日毎日勉強しているのに、どれだけやっても終わらない、終わらせられない、そんな気になる。どれだけ時間があっても足りないとさえ思えてくる。それでも1つ1つをこなしていくしかない。この焦りと苛立ちは直前まで続いた。最後の2~3日はそれまでの勉強の総復習をした。今さら新しいことを覚えるよりも、今までの内容をより確実にしようと自分に言い聞かせた。

正直、大学入試よりも辛かった。建築学科の学部4年は40人弱。うち30人前後が大学院に進学。さらにそのほとんどがそのまま同じ大学の大学院への進学を希望する。gilsonも含め、他の大学院入試を受けない人ばかりである(他の大学院には2次募集というものもあるが)。外部からの受験者も今年は多くあったそうだ。もし、gilsonや他の内部の学生が落ちるということは何を意味するのか。公開処刑のようなものだといってもいいかもしれない。軟禁の後に待っているのが公開処刑とは、なんとも酷な話である。すでに所属している研究室に翌年以降も修士課程として所属することを誰もが期待している。もし不合格なら、その人たちに目に見えてわかる。大学入試はそうではない。見知らぬ敵との戦いであり、入学後所属するのもまだ見ぬ世界である。落ちても身の回りに知れるだけ。それに浪人と呼ばれる人はどこにでもいるくらいに落ちることは珍しくない。院試の方がより辛く、しんどかったのはこの違いだろう。

試験の日はカレンダーどおりにやってきた。試験前日、翌日もその翌日もその日までと同じく研究室で勉強をしているような気がしていた。その日まで繰り返してきた日常が次の日からも同じように繰り返すような感覚。試験日という実感は全くなかった。試験開始は9時で、その30分前から説明が始まる。7時半頃に研究室へ行き、朝食を摂った。8時過ぎに試験会場へ行く。思った以上に知らない人が多く、少し驚いた。そこから9時まで、心臓の鼓動が次第に速く、はっきりとするのが自分でもわかった。だがそれも9時まで。問題を解き始めれば、問題用紙に集中できた。2日間の日程の最後、13時過ぎの面接で退室しドアが閉じた途端、一気に力が抜けた。これでこの陰鬱な日々ともおさらばだ。残りの夏休みは遊びつくすぞ、と。でもその前に合否を聞かなくては。その日のうちに合否が決まるから。9月初旬に郵送で届く判定結果を待っても良いのだが、いち早く知りたければその日のうちに所属する研究室の教授の口から伝えてもらうというのが慣わしのようになっている。全員の面接の終了から見て結果が判るのは8時か9時だろうということで、研究室で待機していた。何をするでもなく自分のデスクのところに座り、改めて勉強に必要なものが揃った身の回りを見回した。ディスプレイの右側には過去問などを解いたノートやバインダー、それにA4以上の大きめのテキストが並べてある。背面の本棚にはA5以下のテキスト。デスクの一番下の引き出しには講義のプリントが、講義名毎にクリアファイルに入れられ、その背を上に向けて並んでいる。それから、何気なくPCを付けぼんやりとネットサーフィンをしていた。でも7時を過ぎたあたりから急に落ち着かなくなった。研究室のドアが開くたびに振り返った。教授が来たんじゃないか、と。ドアの音に過敏になっていた。8時前、教授は不意にやってきた。気づいたとき、教授はすでに部屋の中で、ドアは閉まっていた。gilsonや他のB4の合格の旨を伝え、教授は去っていった。その場にいたM1、M2の先輩に祝われながら、目元を拭っていた。「よかった、ほんとよかった。」そうつぶやいた。

その晩、「院試合格祝い」の居酒屋で飲んだビールはこの上なく旨かった。

2007/09/28

旅とは

9月某日、10時発の近鉄特急に乗って帰省。名駅へは余裕を持って市バスで向かう。コンコース内の書店で文庫本を物色、1冊を購入。コンコースやホームはターミナル特有の趣がある。行き交う人であふれるが、誰一人としてその場所にとどまってはいない。改札を抜けホームへ行き特急の到着を待つ。やがてアナウンスを伴って特急が入線する。車体の正面が減速しながら近づき、待つ人々を舐めながらホームの奥で止まる。その特急で大阪までは約2時間。文庫本を読んだり、車窓を流れる景色をぼんやり眺めたり、他愛もない考え事をしたり。この間のルートは山間部を多く通るため、杉が多く植わった山などの濃い緑をよく目にする。大阪でバスに乗り換えるが、バスターミナルまでは地下鉄を使う。地下鉄はいわば市民の足。聞こえてくる言葉も含め、どこかローカルな空気が漂っている。日常的に乗っている人の目には、gilsonもstrangerとして映るのだろうか?と妄想めいたことを考えながらホームへ降りる。バスの発車までに簡単に昼食を済ませて、ターミナルで乗車券を買う。13時、定刻どおりバスが出発。今日の乗客は中高年の人が多い。「~けん。」、「~しよわい。」など、バス内はすでに海を渡った向こうの雰囲気がある。バスはさらに神戸で客を乗せ、湾岸部を走る。この先の2つの橋など海がよく見える車窓は、先ほどの特急とは対照的だ。車中、特急の中と同じように過ごした。1冊読み終え、少ししてからgilsonが降りる停留所に着いた。18時前、いつもなら日もすでに暮れて薄暗くなってから停留所に着くと記憶していたが、まだ日は西の低い位置にあった。まださほど日が短くないということか。6時のチャイムを懐かしみながら、家路についた。

物事には始まりと終わりがある。それは普通、旅についても同じである。その始まりと終わりは、往路と復路とすることも出来るだろう。旅とは、ある限定された時間を日常とはかけ離れた空間で過ごすことであると考える。旅の中で、始まりと終わりは特に重要な意味合いがあると思っている。旅を図(=figure)、日常を地(=ground)としたとき、往路と復路は図と地の境界とできる。往復の時間が長いほど、あるいははっきりしているほど、旅の経験は非日常として強く意識される。往路をたどる時間は、期待感や高揚感で演出される。復路はその旅を振り返るようにして日常へ戻っていく。建築や空間のアプローチもそういった期待感や高揚感をデザインしているように思う。建築のスケールを超えているが、往路と復路の演出の良い例は、瀬戸内海に浮かぶアートの島、直島へのアクセスだろう。どんな交通手段をとろうとも最終的には、宇野あるいは高松からフェリーに乗って直島へ向かう。本州に暮らす人も四国に暮らす人も、自分の日常と陸続きでない場所である。そのアプローチの特異さもあいまって直島での体験は特別なものとなる。

2~3時間で帰省できる人たちが、帰省をどうとらえているかは知らない。しかし少なくともgilsonは、次のように感じている。すでに日常ではなくなったはずの実家での生活が、それまで当然存在していたかのように横たわっている。今日来たはずなのに、昨日までもそこにいたかのような感覚。そして自分は18歳の頃のままである。もう1つの日常をなぞっているような気分。

帰省の帰り、そんなことを考えていた。

2007/09/26

通学時のシークエンス(転記)

朝は授業開始の10~15分前に家を出て自転車で通学。
夾竹桃の垣根沿いに坂を上り、大学の西側出入口から入るが、特に1限前は歩行者と自転車しか入れない狭い入り口に自転車の列(数台)ができる。そこから敷地に入ると幅2~3m程度の通路があり、その左側にイチョウ並木が40~50m続く。イチョウの奥の10mほど下がったところに付属高校のグラウンドがあり、帰宅時はよく部活動をやっているのが見える。イチョウ並木を抜けると幅10m程度の車も通る交差点に差し掛かり、その南側の全学棟を目指す多くの1、2年生とすれ違う。彼らの若さがまばゆいと感じるのはgilsonだけでないはず。その交差点を左に曲がり、1.5m程度高くなったグラウンド(3グリ)を右に眺めつつ、東西に通るグリーンベルトの北側に出る。そしてグリーンベルト沿いに東へ向かうが、このあたりは工学部の建物が立ち並んでいるためか、男ばかりで「ムサい」印象を受ける。逆にグリーンベルトの南側は1,2年生や文系の学生が多くアウェー感があるので、いつも回避している。今の時期グリーンベルトの両脇の道は、左右の常緑樹と落葉樹の色の対比が美しい。グリーンベルト沿いに直進すると大学の敷地を貫く公道に突き当たる。それを超えると4号館に着く。

イチョウ並木などは学内でもいいなと思える場所の1つだ。他には公道の東側の地区の森々した雰囲気も結構気に入っている。5号館の教室の窓でトリミングされる木々には癒される。丘陵地帯を整地して作られたキャンパスなので学内やその周辺でアップダウンが激しいのはあまりいただけないが、日々季節の変化を感じられるのはありがたい。

2007/09/25

イタリア旅行記(転記)

2006年9月のイタリア旅行を振り返って2007年1月に寄稿したもの。

■ミラノ■
ここでの観光の目玉はやはりガレリアとドゥオモ。特にドゥオモは、イタリアでは少ないゴシック様式。あまりの大きさに圧倒された。内部は少し暗くてひんやりとしている。帰国後講義で学んだことだが、ミラノのドゥオモは、英・仏に良く見られる典型的なゴシック建築とは違い身廊部・側廊部に一体的な山型の屋根がかけられている。これによりクリアストーリーのような高窓がないため、今のような電気照明がなかった時代は、長堂の交差部の明るさが際立っていただろう。
 
■ヴェネツィア■
水の都ヴェネツィアは今回の旅行でgilsonが一番気に入った場所。一言で言えば、「歩いていて(またはゴンドラで遊覧していて)飽きない街」だと思う。地図を見れば明らかだがこの水上都市は全体が画一的にコントロールされることなくそれぞれの部分で適宜手が加えられた。その結果、この街は部分の集合として有機的な形態を持つ街となり、その景観もヒューマンスケールで魅力的なものとなっている。景観としてこの街をより印象的にしているのは、街に網目のようにめぐらされた小運河、つまり水辺空間の充実だと思う。3・4階建ての建物に挟まれた狭い路地を歩いていると、不意に反り橋が現れる。その下に横たわる小運河と左右の広がりが与える変化が心地よい。逆にゴンドラに乗っているときは、ゲートのように反り橋をくぐり、自分がたどるライン(パス)と、たどらないライン(エッジ)が逆転する。この、パスとエッジの逆転はとても面白かった。さらに、ヴェネツィアでヒューマンスケールの街並みと対照をなすのは、サン・マルコ広場と大運河である。この大小の空間の対比・遷移が、それぞれの空間体験をより印象的なものにする。
 
■フィレンツェ■
ここは求心的なドゥオモと市庁舎・それに付随する広場が主骨格をなす、西洋の典型的な街である。しかし、ここはなんといってもルネサンスが花開いた街。ドゥオモもミラノのものと比べると華やかである。色彩も・フレスコ画もゴシックにはない特徴である。さらに、このドゥオモのドームの架構を考えたブルネレスキには感心する。直径45mのドームを実現するための構造・構法はそう簡単なものではない。推力をたがで閉めるというのも今では一般的だが当時としては画期的なものであっただろう。フィレンツェは、市街地から離れた丘の上のミケランジェロ広場からの眺望が抜群だった。テラコッタの赤で統一された街中の屋根、建て揃った家屋の中の中のドゥオモやヴェッキオ宮、アルノ川とそれにかかる橋々が景色のアクセントとなっている。
 
■ローマ■
ローマでは、ツアー中唯一の自由観光が半日ほどあった。そこで、数ある行きたい場所のうち、実現性なども考慮して、カンピドリオ広場・パンテオン・ナヴォナ広場へ行くことにした。ローマ三越からすべて歩いて回り、帰りはタクシーでホテルへ向った。ローマの街路はほとんどグリッド状になっていないので、散策しづらいのではという懸念もあったが、比較的すんなりとそれぞれの目的地にたどり着けた。というのも、今のローマのベースとなっている16世紀の都市改造があったから。当時の教皇シクトゥス5世は、バシリカをまわる巡礼路として放射状街路で広場などをつなぎ、広場の中央にはオベリスクを置いた。この放射状街路とオベリスクのおかげで、目的地へは経由地点を設定し、地点間の直線的移動でおおよそたどり着けた。楔形平面のカンピドリオ広場のタイル・パンテオンの内部空間のプロポーション・狭い路地に突如現れる、ナヴォナ広場の穏やかな雰囲気も良かった。
 
■カプリ■
ここはなんといっても青の洞窟。狭い入り口から差し込む光が水中で乱反射して、青く幻想的な雰囲気になる。状況によっては、洞窟の目の前まで来て中に入れないということも多々あるようなのでラッキーだった。カプリ島の斜面を這うように建っている家々や、スローで陽気な雰囲気も気持ちがよかった。

■ヴァチカン■
午後には帰国の途につくので、午前中だけの観光。ヴァチカン博物館に並び、システィーナ礼拝堂を見学した。個人的にはサンピエトロ大聖堂と広場の方が良かった。システィーナ礼拝堂は質素な外観とは対照的な壁画・天井画の装飾。約21mの天井高はコンクラーベなどの用途からすれば高すぎると思ったが、それよりもカトリックにおける教皇やコンクラーベの重要性や権威を考えると当然なのかもしれない。
 
 
全体を通じてつくづく思ったのは、どの街も永年の歴史を経てきた建築などのストックが日本に比べてあまりに多いということ。また、今も各々が使われ続けているというのが感心する。それまでの歴史の蓄積としての都市の姿は、景観を豊かに彩る。ストックの充実が街をより魅力的にしていると思った。

開設にあたって。

これまで約2年間、他のブログを運営していた。
しかし、その時に書きたい内容を、形式も
統一せずに 書いていたがために、一貫性や
まとまりのない logとなってしまった。

その反省を踏まえ、このweblogではその内容を
エッセイのようなある程度まとまった量の文章に
限定することで、形式にまとまりを与えることを
試みる。

また、gilsonの文章を書く練習も兼ねている。