2018/03/15

コーヒー・トラベラー

近所の豆店で、どの産地にしようかと選んで買う。
 生豆で200g、実質160gくらい。
毎朝2人で飲めば16杯、8日分。
1週間強で飲みきる計算になる。 

コーヒーの味は産地によってまるで違う。
焙煎の深さ、淹れ方によっても変わるけれど、
焙煎と淹れ方は変えないようにしている。 

新しい豆を最初に飲む日は、
前日までの味との違いに違和感を覚える。
前日までの味を期待しているので、
美味しくないとさえ感じる。 

だけど、毎日飲んでいると、
舌と鼻がその豆になじんでくる。
予想と結果の誤差が収斂していくのである。
フィードバックやキャリブレーションと呼んでもいい。 

違和感を感じたくなければ、
毎回同じ産地の豆を買うということも考えられる。
いつもと同じ味、自分のもっとも好みな味。
変化と安定、どちらを嗜好するかといえば大げさだろうか。 

我が家は、これこそが一番美味しいという産地を
まだ確立していない。
あの産地もこの産地も捨てがたく美味しいのである。
そして、まだ飲んだことのない産地もある。 

まだ知らない美味しさを求めて
今も世界中の産地を旅行中なのだ。

2011/06/23

エンジニアの思想

engineer と engine は語源が異なるという説もあるようだけど、engineerはengineを操る人という語源を元に、話を進めたいと思う。

エンジニアは、もともとエンジン技師を指す言葉だった。それが転じて、あらゆる専門性のある技術や技能の持ち主を指すようになった、という解釈。

昔の蒸気機関(steam engine)は、操作するのがとても難しかった。操作するための知識やウデのある人が操作していた。どのように操作すれば石炭を効率よく動力に変えることができるかを、理論的あるいは経験的な裏付けによって、エンジニアは知っていたのだと思う。

かなり雑に言い切ってしまえば、今も昔も、そしてどの分野のエンジニアも、ある理想的な出力状態(パフォーマンス)のために、いろんな入力(パラメータ)を選ぶという判断を下しているのだと思う。ふつう、その入力と出力の関係は、入り組んでいて単純ではない。

僕たち建築構造の分野では、理想的な出力状態というのは、破損や人災が生じない状態である。それを実現するためには、建物の骨組みをどう構成したらよいか、骨組みの材料はどのようなものがよいか、骨組み1本1本はどのくらいの大きさにしたらよいか、という、いくつもの選択肢を、時間や予算の条件も考慮しながら1つ1つ決めていくのが構造エンジニアの仕事である。

しかも、単に「破損や人災が生じない状態」といっても、どのくらいの規模の地震まで、これを適用するか、社会やクライアントがその条件を提示してくることは、まずありえない。
「うちのマンションは200galの神戸地震で時刻歴やって弾性設計してよ。」
とか言える人はすでにそういう仕事をしているはずである。
(※「」の中は事実無根の内容です)
なにか地震に関しての要求があっても、もっと漠然としていて、とにかく「壊れないように」とかその程度だと思う。そうすると、エンジニアが、自らの判断により、耐えうる地震の規模を設定しないといけない。

このような判断こそが、エンジニアリングの本質だと、僕は思う。つまり、だれがやっても結果が同じになるような構造計算の部分よりも、その計算と計算の間にある、種々の個人的な判断がエンジニアには重要なのだろう。

この種の判断は、その昔のエンジン技師にも必要だっただろうし、今のあらゆるエンジニアにも必要なことなのだろうと、僕は理解している。

この理屈の展開を成立させるため、僕の中で「エンジニア = エンジン技師」説が消えることはないし、いつまでも最有力説であることに変わりはないだろう。

2011/05/23

10進法より12進法?

なぜ10進法を昔の人たちは採用したのだろう。
指の本数が10本だからというのが僕の中では最有力。

10進法は、たとえば「3割」という表現のように、人間の感覚に
すっかり同期してしまったように思う。
約数の多さなど、12進法の方が便利な面もあるにはあるけれど。

とはいえ、10進法でないものも身の回りにはある。
角度(360度)
時間(1日=24時間、1時間=60分、1分=60秒)

また、英語などの言語は、10からというよりは
13から違うルールになる(-teenはthirteenから)

最近、日本の東西での電気の周波数の違いが話題になったけれど、
西日本がアメリカの60Hzの発電機を輸入し、東日本がドイツの
50Hzの発電機を輸入したことに起因しているそうで。
僕は、(関西-アメリカ-60)(関東-ドイツ-50)という
各3項目の性格分類に、「この分類以外にない」と妙に納得して
しまうのである。


アメリカという国は、今でもヤード・ポンド法が一般的に
使われている。(1yard=3feet, 1feet=12inch)
それゆえに、アメリカやイギリスの模型の縮尺は1/48、1/72が
標準的。

建設業界では、図面の縮尺(スケール)は、用紙サイズと
関係してくる。たとえば、A3で1/400の図面をA2にレイアウト
し直すとき、A3とA2のサイズの比率は1:√2なので、
A2では 400/√2=282.8.. より、すこし縮小して1/300で
レイアウトするとちょうどよい。
これがA3で1/300の場合だと、300/√2=212.1.. より、
A2では1/200だと少しはみ出るし、かといって1/300だと
A3と同じスケールなので用紙サイズを大きくした意味があまりない。

なんとなく、12進法ならもっとスマートにスケールを調整できる、
と思っていたけれど、いろいろ試してみたら、10進法と
あまりかわらないようだ。

2009/02/22

what he(/she) chooses, what he(/she) watches

例えば、何人かで旅行へ行き、各自100枚ずつ写真を撮るとしよう。そうやって撮った写真には、まさに十人十色な傾向が現れるだろう。1枚1枚ではその傾向が弱くても、100枚集まればその人はどういうものに注目していたか、どういうものに注目していなかったかが明らかになる。
同じことが、言葉にも言えると思う。特に、比喩の仕方にはその人の内面が現れる。親しくなった、あるいは親しくなっていくであろうその人と何度も話をする中で、よく使う比喩、言葉、仕草というものこそが、その人らしいな、と僕は思う。
それはこういうことではないだろうか。人間とは、観察し学習していく生き物だ。自分が触れる、あらゆるものを人間は観察している。植物、気候といった物理的な物・現象、他人の言動、書物などなど。その観察によって得られた情報を自我が咀嚼し、消化する(学習)。そしてそれ以後の表現や行動に影響を与える。例えば、書物の中に自分の琴線に触れ、「これは」と思うような表現を見つけ、十分に消化しきれたら、その表現が新たに自分のボキャブラリーとして定着するというようなことである。
以上をふまえた上で考えたことがある。フジテレビの番組「とんねるずのみなさんのおかげでした」の中の1コーナー、博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜について。最近は年に数回程度の頻度で行われている。タイトルの通り、「知らんわ!(モノマネの対象を)」と思うようなモノマネを何人もが次々と披露していくコーナーである。視聴者の大半が真似される対象を知らないと思われるが、当コーナーは人気を博している。それはなぜか。このコーナーにおけるモノマネに、その人の観察、消化、表現という行為が全て現れているからではないだろうか。その人が何に興味を持っていて、何を面白いと思った上で、その面白さを表現したかに尽きる。細部にこだわることは、その人の観察力の確かさを伺わせる。
最後に。森博嗣氏は言った、「作家が持っている最大の力とは、文章力でなく、人物観察力である。」と。

2008/10/30

内面から知る

建築学科で,まだ研究室に配属される前の話。
設計の授業が始まって,市内某所に○○(例えば住宅)を設計しなさい,といった課題が与えられる。大まかなコンセプトに始まって,基本設計の図面に至るまで,進捗状況を毎週先生に見せる。それがエスキスと呼ばれるもの。机をはさんで向かいに座り,図面や模型を見せながら,ここはこういう考えでこういう形にしました。と説明する。そうすると,その形だとこういう不具合が生じる,こういう矛盾がある,整合性が取れてない,と指摘されながら,持ってきたアイデアをもっと良くするにはどうしたらいいか,を議論する。それを毎週繰り返して,最終的な図面や模型を2ヶ月程で完成させる。学科の約40人が提出したもののうち10~15点は,講評会という場で,授業担当以外の先生も迎えてプレゼンをする。その場でもダメ出しのようなコメントを多く頂く。僕は,設計の課題を何回か重ねるうちに,設計を考えるのは好きだけど,自分には向いていないな,と感じて,今の建築構造の研究室の門を叩いた。
それはさておき,講評会の後には,ほぼ毎回,打ち上げの飲み会が企画される。たいていは我々学生と先生やTAもいっしょに飲む。そうすると,先生は学生のことをいろいろ聞くわけだが,「君はどんな設計やってたっけ」という質問がこの場においてはメジャーだ。「こういう形のこういうものをやりました。」「あー,あれね。あれはちょっと○○すぎたよね」とやりとりが続く。つまり,先生は学生の顔は覚えていなくても40人40通りの設計はたいてい覚えている。また,各設計者(学生)に対する印象というものも,外見や人柄ではなく設計で決まっているように思う。僕らが雑誌などで作品を見る,有名建築家も同様だ。いろんな建物の図面や写真があり,たいてい設計した建築家の名を冠しているわけだが,作品集でもない限り,その建築家の顔を見ることはない。たまたま出くわしたその建築家の写真を見て,「この人ってこんな顔だったんだ,想像してたのと全然違う。」なんて思うことが多々ある。
考えてみれば,小説やマンガ等の作家もそうだ。たいていは,ある作品を読んで好感を覚え,同じ作家の別の作品にも手を伸ばす。後になって著者の写真を見るあるいは全く見たことがないなんてことも多々ある。

一般の社会生活では,他の人の内面をまず知るという機会はあまりない。それどころか,外見だけで人を判断してしまい,先入観を抱いてしまう。それゆえ,建築学科で経験した,内面から知る,知られるということは,すごく新鮮で,なおかつ正当な感じがした。

2008/10/15

CAFE HAWELKA

中欧の旅から,はや7ヶ月。旅行時のパンフやらチケットがしまわれていたファイルを久しぶりに取り出した。ウィーンの路面電車のチケット,ドイツのお城のリーフレットなどなど。こうやって手に取ってみると,「夢だったのではないか」という感覚がぬぐわれ,本当に行ったのだなということが再認識される。このハヴェルカのコースターを見ると特に。

カフェ・ハヴェルカ。その昔,ウィーンの芸術家たちも集まったという,歴史あるカフェ。多くのガイドブックに乗っていることもさることながら,僕が行きたいと思った理由は他にある。旅行の前の年に発売されたアルバムの中で,くるりは「ハヴェルカ」という曲を書いた。さらに,アルバムのブックレットの裏表紙は,くるりの2人が,ハヴェルカの外の席に座っているものだった。このアルバムは,ウィーンで収録された。
そういえば,ウィーンの道中僕の頭の中ではこのアルバムの曲ばかりが鳴っていた。
そんなこんなで,ウィーンの自由観光の途中,僕はカフェ・ハヴェルカへ向かった。それは,ウィーンのほぼ中央に高くそびえたつシュテファン大聖堂から伸びる広い歩行者道路から,わきへ入ったところにある。僕はそのわき道の反対側からハヴェルカを目指した。一方通行とおぼしき狭い道は両脇の軒高ゆえ,あまり日が差さない。そんな通りに,ハヴェルカはひっそりとたたずんでいた。
すこし緊張しながら,僕はその扉を開けた。やや重みのある木の扉。風除室が狭い。もう一枚の戸をくぐる。思っていたよりも店内は狭い。雑誌の写真とは違って,人でごったがえしている。話し声で騒がしい。皆の吸う煙草で,上層の空気が白っぽい。空席が見あたらない。ウェイターに英語でたずねたら,「どこでもお好きなところへどうぞ」といったが,やっぱりそこのトレーを片付けて,僕が立っていたすぐそばの椅子を用意した。「どうぞ」と。用意されたのは,英米系の夫婦のテーブル。相席か。僕は席に着いた。テーブルが小さく,向かいの夫婦までの距離が近い。内心,気が気でない。きょろきょろと店内を見回した。壁一面に張り重ねられた,ポスター。濃い色の木の内装。きちっと正装したウェイターたちは,テーブルの間を縫うようにちゃきちゃきと動き回るが,僕たちのテーブルのところには,いっこうに立ち止まる気配がない。仕方なしに,忙しそうなウェイターを呼び止める。メランジェを注文する。予習済みだったのであわてなかったが,この店にはメニューがない。ウィーン特有のコーヒーの種類は覚えておいた。カフェやトルテは,ウィーンの文化である。そして,カフェでの語らいが,芸術を育んだといえる。注文後かなり間があってから,メランジェが用意された。メランジェとは小さいカップに注がれたの濃いめのエスプレッソのこと。光沢を放つ銀色のトレーに一式乗せて持ってくるのがウィーン流。そしてかならずグラスの水がトレーに乗ってくる。なるほど,コーヒーの合間に水を飲むと,よりコーヒーを味わえるようだ。向かい合わせの夫婦は,追加でワインを注文した。水が入っているのと同じようなグラスに注がれていたので,最初はよくわからなかったが,色からして赤ワインだろう。夫の方がガイドブックのようなものを読みながら妻と話し合ってる様子から,彼らも観光客なのだなと思った。
メランジェでだいぶ緊張は解けたが,それでも僕はそわそわしていた。いつ勘定をしようか,とウェイターを目で追っていた。さっさと帰ってしまうのはもったいないような,でも落ち着かないしと,迷ったままその場に身をおいていた。結局,何分間ハヴェルカに居たかは定かではない。ただ,向かいの夫婦が勘定し終わる瞬間を見計らって,そのウェイターに「ツァーレン」と言った。彼は金額を紙に書いて,テーブルに置く。日本人と分かっての事だろう。そのほうが,こっちとしてもありがたい。僕が勘定を済ませた時,相席の夫婦は,もう店を出るところだった。僕はゆっくりと上着を着て,マフラーとかばんを持って席を立った。

店を出て,少し歩いたところで,ポケットの中からコースターを出した。ワインのグラスが乗っていたそれである。コースターと言っても,ナプキンのような紙が何枚か重なったもので,いかにも使い捨てるような代物だ。もう既にグラスの液でしわができている。店を出る間際,片付ける前の,夫婦がのトレーから拝借した。


"CAFE LEOPOLD HAWELKA"そして創業者Leopold Hawelkaのサインのプリント。
このコースターには,僕の冒険にも似た僕の旅の思い出が詰まっている。

2008/04/17

ウィーンを歩く

ツアーということもあって、それまでは良くて数時間のフリータイムばかりだったが、7日の午後とこの日は自由観光だった。
朝は添乗員について郊外ののみの市へ行った。そしてグループの友人たちと地下鉄で中心市街地へ戻ったあと、夜の室内楽の時間まで僕は1人で動くことにした。まずはリンク沿いにある王宮へ行った。リンクというのは旧市街中心部を縁取る環状のトラム路線のこと。かつて城壁が取り囲んでいたが、防衛の必要がなくなったため、それらを取り払った。さらにその周辺に設計競技によって建設された公共建築が集められている。王宮は広大な庭を前に構え、居座っていた。ハプスブルグ家の栄光を物語るように。そこから、適当に行きたいところを決めて地図を見ながら、でも気まぐれ半分でほっつき歩いた。途中、休憩がてら2回カフェに入った。どちらも地元生活者が多い印象。会計は「ツァーレン ビッテ」、ありがとうは「ダンケ」。もう慣れっこである。2軒目のカフェを出て、また歩いていたら、道の先から「on the sunny side of the street」が聞こえてくる。広場の隅で路上演奏をやっている人たちだった。クラリネット、バンジョー、サックスの3人組。このあと、「take the A train」もやっていて、少し立ち止まって聞いていた。その広場ではマーケットもやっていた。屋台みたいな木の建物がずらっと並んでいて、木のおもちゃからアクセサリーまでいろいろ売っていた。さらに歩いてちょっと疲れたので、トラムを使ってリンクのおおよそ北端から南端へ移動した。高さの揃った街並みや欧州車、当然ながら車窓から見えるものも日本とは全然違う。降りた駅近くのウィーン美術館では「ナゴヤ展」なるものも開催されていた。展示会には入らなかったが、ミュージアムショップで展示に関する分厚い本を立ち読みする。名古屋城、万博、トヨタなど…なるほど。スシのサンプル、チョップスティックスも売っていた。ウィーン美術館を後にし、もう半ばやることがなくなって、前日も行ったケルントナー通りへ。スーベニアショップからH&Mまで立ち並ぶ、道幅10数mの歩行者天国となっている。ここはだいぶ観光客が多い。それでも地元の若い人たちも多くいるのだろう、僕には区別がつかないが。ずっと1人で動いていたので、日本語もしゃべらないし、目に入るのも色白で鼻筋の通った顔ばかりである。日常の面影が全くない、この感覚が心地よかった。気分はもう欧州人である。日本人・アジア人はあまり見かけなかったが、たまに見かけると10m先でも区別がついた。ここにもいた、と出くわしたのは薄暗がりのショーウィンドウに写った自分だった。僕もやっぱり鼻が低いんだな、とすこしがっかりした。